「キリストの信にあって生きる」と「キリストに対する信仰によって生きる」とは同じ?

 

   パウロは、クリスチャンは「律法の業」によって生きるのではなく、「キリストに対する信仰によって生きる」べきである、と書き送っている。(ガラ21617他参照)

   このガラテア2:16に二度出てくる「キリストに対する信仰」(NWT)は田川訳では「キリストの信」と訳されている。この「キリストの信」とは、ルターがギリシャ語のpistisを「信仰」(Glaube)と訳して以来、ほとんどの聖書が「キリストに対する信仰」の趣旨で訳している。

口語訳「キリスト・イエスを信じる信仰」。新共同訳「イエス・キリストへの信仰」。

NWT「キリスト・イエスに対する信仰」。

 

   しかし「信仰」と訳されているギリシャ語pistisは、ドイツ語Glaubeが意味する「人間が神ないしキリストに対して持つ信仰」を意味するわけではない。他の言語でも「信仰」とは同じ趣旨の意味である。しかし、この個所の「キリストの信」(キリストに対する信仰)と訳されているギリシャ語の原文pisteos iessou christouを文法的には「キリスト」を「信仰(信頼)の対象」としている意味に解することは、あり得ない。

 

   「信」(pistis)という語の原義は「信頼」「誠実」「信実」という意味である。元々は、pistosという形容詞を名詞化した語であり、厳密には「誠実であること」「信頼に値すること」「信実であること」という意味。

   パウロがpistisを使った言い方に「神のpisitis」(ローマ33)という表現がある。これを「神の信仰」と訳してしまうと、おかしなことになる。神が何かほかのものを信仰の対象としている、という趣旨になってしまうからである。これは「神はpistosである」(テサ①5:24、コリ①1:9,10:13、コリ②1:18)ということを名詞化したもので、神は誠実であり、偽ることがない、常に信頼に値する、裏切ることはしない、という趣旨である。

 

   「キリストの」の原文は、christouで「キリスト」の属格である。属格には主格的な属格と対格的な属格がある。主格的属格の意味では「キリストが信実であること」の意味になるが、対格的な意味では「キリストに対する信仰」になる。ここは対格的な意味での属格であり「キリストに対する信仰」という意味である、と解説される。

   しかし、名詞の属格が対格的属格になり得るのは、その属格に掛かっているもう一つの名詞が他動詞に由来する名詞でなければならない。訳者の都合でどちらの意味に解しても良いものではない。その名詞が自動詞に由来するなら、主格的属格にはなるが、対格的属格にはなり得ない。自動詞は目的語を持たないのであるから、当然である。

 

   日本語では「信じる」が他動詞であるから解り難いが、ギリシャ語の「信じる」は自動詞である。日本語的に「○○を信じる」という意味ではなく、「○○に対して信頼する、信頼の態度を保つ」という意味。NWTは「に対して」と訳しているが、「キリスト」は対格の目的語ではなく、「信じる」は与格支配の動詞である。「信じる」対象を明確にする場合には、前置詞を付ける必要がある。与格支配の動詞は、自動詞であり、他動詞ではない。つまり、原文属格の「信」(pisteo(_)s<pistis)は、対格的属格ではなく、文法的には主格的属格でしかあり得ない。

 

   では「キリストの信」とはどういう意味か。「キリストに対する信仰」という意味ではないことは確かであるが、文法上は「キリストが信実であること、誠実であること」という意味であるとしか言えない。パウロは形容詞表現では、神に関しては「神はpistosである」という言い方は出て来るが、「キリストはpistosである」という言い方は一度もしていない。

   「神のpistis」は「神が信実であるということ」「神には偽りがない」という意味であるから、「キリストの信」も「キリストが信実であること」あるいは「キリストが持っている信実」という意味に解せると思うかもしれない。しかしそのような用法は新約にはないのである。また「キリストの信」をその意味に解するのは、パウロが三位一体を支持していると誤解される恐れがある。

 

   パウロがpistisという語を属格で用いる時には「神の信」を含め「アブラハムの信」(ロマ4:12)「あなた方の信」(コリ①25他多数)とはすべて、主格的属格である。「アブラハムの信」とは「アブラハムが信じている信頼」のことであり、「アブラハムを信じていること」ということ、つまり対格的な意味で「アブラハムに対する信頼」という意味ではないのは明らかである。「あなた方の信」も同様である。「あなた方が信じている信頼」のことであり「あなた方を信じる信仰」の意味とはなり得ない。

 

   「キリストの信」という表現は、新約の他の著者たちは用いておらず、パウロ書簡においても「信による義」(信仰義認)を論じた個所にしか出て来ない。(ガラ2:16で二度、ガラ2:20、3:22、ローマ3:22,26、フィリポイ3:9のみ)

   つまり、「キリストの信」という表現は、「信による義」の問題に関する特別な術語であることと考えられる。これは、パウロの一種の省略表現であり「律法の業」からではなく、「神がキリストを通じて示したくれた信実によって」という意味であると思われる。これを「律法の業績」と対比させ「キリストの信」と省略表現で述べたのであろう。

 

   この理解が正しいことを裏付けるパウロの記述が、同じ文脈のガラテア220に出てくる原文の表現から理解できる。

 

この点は次回、取り上げたい。

 

この「キリストの信」に関係した、さらに詳しい説明を知りたい方は、田川健三著「新約聖書訳と註」第三巻を参照して下さい。