マルコ14:53-65 <大祭司の裁判> 並行マタイ26:57-68、ルカ22:54、66-71、

                   参照ヨハネ18:19-24

マルコ14 (田川訳)

53そしてイエスを大祭司のもとに連れて来た。そして祭司長、長老、律法学者がみな集まってくる。54そしてペテロが遠くから彼に従って来て、大祭司の中庭の中まで来た。そして下役たちと一緒に座って、火で暖まっていた。55祭司長たちと全議会はイエスを死刑にするために、彼に対する証言を探した。しかし見つからなかった。56というのも、多くの者が彼に対して偽の証言をなしたのだが、それらの証言は一致しなかったのだ。57そして何人かの者が立ち、彼に対して偽の証言をなして言った、58「我々はこの者が、自分は手で造られたこの神殿を壊し、三日以内に手で造らないもう一つの神殿を建てるだろう、と言っているのを聞きました」。59そして彼らのこういった証言もまた一致しなかった。60そして大祭司が真ん中に立ち、イエスを尋問して言った、「お前は何も答えない。この者たちがお前に対してどう証言しているのか」。61は黙ったまま、何も答えなかった。再び大祭司が彼を尋問して、言う、「お前は誉むべき者の子キリストであるのか」。62イエスは言った、「それはあなたが言っておいでのことだ。あなた方は人の子が力の右に座し、天の雲とともに来るのを見るであろう」。63大祭司は自分の衣を引き裂き、言う、「我々はこれ以上証人の必要があろうか。64汝らはこの冒涜を聞いたか。汝らはどう思うか」。彼らは皆、彼は死罪に値すると断じた。65そしてある者たちが彼につばを吐かけ、目隠しをし打ち叩きはじめて言った、「預言してみろ。そして下役たちも彼をぶんなぐった

 

マタイ26

57彼らはイエスを捕らえて、大祭司カヤファのもとに連れて来た。そこに律法学者や長老たちも集って来た。58そしてペテロは遠くから彼に従って来て、大祭司の中庭にまで来て、中に入り、下役たちと一緒に座って、成り行きを見届けようとした

59祭司長たちと全議会は、何とかイエスを処刑にするために、彼に対する偽証を探した。60しかし、多くの者が進み出て偽証したのだが、(うまい証言が)見つからなかった。その後更に二人の者が進み出て、61言った、「この者は、自分は神の神殿を壊し、三日以内にまた建てることができる、と言っていました」。62して大祭司が立ち、彼に言った、「お前は何も答えない。この者たちがお前に対してどう証言しているか」。63イエスは黙っていた。そして大祭司が彼に言った、「生ける神に誓って、お前に言う、我々に答えよ。お前は神の子キリストであるのかどうか」。64イエスは彼に言う、「あなたがそう言っておいでなのだ。むしろ私はあなた方に言う、今から後あなた方は人の子が力の右に座し、天の雲の上にのってるのを見るであろう」。65その時大祭司は自分の衣を引き裂いて、言った、「これは冒涜だ。我々はこれ以上証人の必要があろうか。見よ、汝らは今この冒涜を聞いたではないか。66汝らはどう思うか」。彼らは答えて言った、「死罪に値する」と。

67その時、彼らは彼の顔につばを吐きかけたり、打ち叩いたりし、またある者たちはぶんなぐって、68言った、「俺たちに預言してみろよ。キリストさんよ。お前を叩いたのは誰か」。

 

ルカ22

54彼らは彼を引きとらえて、大祭司の館の中に連れて来たのだが、ペテロが遠くからついて来た。……

 

63そして彼をつかまえていた者たちは、彼を嘲弄して、鞭で打ち叩いた。……

 

66そして朝になった時、民の長老たちが集った。また祭司長、律法学者も。そして彼を自分たちの会議場に連れて行き、67言った、「お前はキリストなのか。我々に言ってみよ」。彼は彼らに言った、「あなた達に言ってやっても、信じないだろう。68私があなた達に問うても、あなた達は答えまい。69今から後、人の子は神の力の右に座すことになろう」。70皆が言った、「ではお前は神の子なのか」。彼は彼らに対して言った、「それはあなた達が言っておいでのこと」。71彼らは言った、「我々はこれ以上証言の必要があろうか。我々自身が彼の口から聞いたのだから」。

 

参ヨハネ18

12それで部隊と千卒長とユダヤ人の下役たちがイエスをとらえて、縛った。13そして彼をまずアンナスのところに連れて行った。彼はその年の大祭司カヤパの舅であったからだ。

……

19それで祭司長がイエスに、その弟子たちについて、またその教えについてたずねた。20彼にイエスが答えた、「私は世に対して正々堂々と語って来た。私はいつも会堂や神殿で教えた。そこにはすべてのユダヤ人が集って来る。そして隠れたところでは私は何も語らなかった。21あなたは何を私におたずねになりたいのだ。聞いた人たちに、私が彼らに何を語ったのかおたずねになるがよい。見よ、この者たちは私の言ったことを知っている」。22彼がこう言うと、そばに立っていた下役の一人がイエスを殴って、言った、「祭司長様に対してそういう返事の仕方をするのか」。23彼にイエスが答えた、「もしも私が悪しく語ったというのなら、何が悪いのか証言してみろ。だが、良く語ったのなら、どうして私を打つのだ」。24それでアンナスは彼を縛ったまま大祭司カヤパのもとに送った。

 

 

マルコ14 (NWT)

53 さて,彼らはイエスを大祭司のところに引いて行った。そして,祭司長・年長者・書士たち全員が集合した。54 しかしペテロは,かなり離れたところから彼のあとに付いて行き,大祭司[の家]の中庭に入った。そして,その家の従者たちと一緒に座って,明るい火の前で身を暖めていた。55 一方,祭司長たちおよびサンヘドリン全体は,イエスを死に処するため,彼に不利な証言を探し求めていたが,何も見いだせなかった。56 大勢の者が彼に不利な偽証をしていたのであるが,その証言は一致していなかったのである。57 また,ある者たちが立ち上がり,彼に不利な偽証をしてこう言うのであった。58 「わたしたちは,彼が,『わたしは手で作ったこの神殿を壊し,手で作ったのではない別のものを三日で建てる』と言うのを聞きました」。59 しかし,こうした点についても彼らの証言は一致していなかった。

60 最後に,大祭司が彼らの真ん中に立ち,イエスに質問して,こう言った。「何も返答しないのか。これらの者があなたに不利な証言をしていることはどうなのか」。61 しかし[イエス]は黙ったままで,少しも返答されなかった。大祭司が再び質問をはじめてこう言った。「あなたはほめたたえるべき方キリストか」。62 するとイエスは言われた,「わたしは[その者]です。そしてあなた方は,人のが力の右に座り,また天の雲と共に来るのを見るでしょう」。63 すると,大祭司は自分の内衣を引き裂いて,こう言った。「このうえ証人が必要だろうか。64 あなた方は,冒とくのことばを聞いたのです。あなた方には何がはっきりしていますか」。彼らは皆,[イエス]を死に服すべき者と断罪した。65 すると,ある者たちは彼につばをかけ,また彼の顔をすっぽり覆ってこぶしで殴り,「預言せよ!」などと言い始めた。そして,廷吏たちは彼の顔を平手で打ってから,彼を連れて行った。

 

マタイ26

57 イエスを拘引した者たちは,彼を大祭司カヤファのところに引いて行った。そこに書士や年長者たちが集まっていた。58 しかしペテロは,かなり離れてあとに付いて行き,大祭司[の家]の中庭まで来た。そして中に入ったのち,成り行きを見ようとしてその家の従者たちと一緒に座っていた。

59 一方,祭司長たちおよびサンヘドリン全体は,イエスを死に処するため,彼に対する偽証を探し求めていた。60 だが,偽りの証人が大ぜい進み出たにもかかわらず,彼らは何一つ見いだせなかった。後に二人の者が進み出て,61 こう言った。「この人は,『の神殿を壊して,それを三日で建て直せる』と言いました」。62 すると,大祭司が立ち上がって彼に言った,「何も答えはないのか。これらの者があなたに不利な証言をしていることはどうなのか」。63 しかしイエスは黙っておられた。それで大祭司は言った,「生けるにかけて誓って言え,あなたはキリストなのかどうか」。64 イエスは言われた,「あなた自身が[そう]言いました。それでも,あなた方に言っておきますが,今後あなた方は,人のが力の右に座り,また天の雲に乗って来るのを見るでしょう」。65 すると,大祭司は自分の外衣を引き裂いて言った,「この者は冒とくした! このうえ証人が必要だろうか。見てください,あなた方は今,冒とくの言葉を聞いたのです。66 あなた方の意見はどうでしょうか」。「彼は死に服すべきだ」と彼らは返答した。67 それから彼らは[イエス]の顔につばをかけ,こぶしで殴りつけた。ほかの者たちは顔を平手で打って,68 こう言った。「キリストよ,わたしたちに預言せよ。お前を打ったのはだれか」。

 

ルカ22

54 その時,彼らは[イエス]を捕縛し,引いて大祭司の家の中に連れて来た。しかし,ペテロはやや離れてあとに付いて行った。……

63 さて,[イエス]を拘引した人々は彼を殴って愚弄しはじめた。……

66 やがて夜が明けた時,民の年長者会が,つまり祭司長と書士たちとが共に集まった。そして,彼を自分たちのサンヘドリン広間の中に引き出して,こう言った。67 「もしあなたがキリストであるなら,わたしたちに言いなさい」。しかし[イエス]は彼らに言われた,「たとえわたしが言ったとしても,あなた方は少しも信じないでしょう。68 また,わたしが質問したとしても,あなた方は少しも答えないでしょう。69 しかし,今からのち,人のの強力な右に座ることになります」。70 すると,彼らはみな言った,「それでは,あなたはなのか」。[イエス]は彼らに言われた,「あなた方自身,わたしがそうだと言っています」。71 彼らは言った,「どうしてこのうえ証しが必要だろうか。わたしたち自身が,彼の口から[それを]聞いたのだ」。

 

参ヨハネ18

19 それから,祭司長はイエスに,その弟子たちや教えについて質問した。20 イエスは彼に答えられた,「わたしは世に対して公に話してきました。わたしはいつも会堂や神殿で教えました。そこはすべてのユダヤ人が集まるところであり,何事もひそかには話しませんでした。21 なぜわたしに質問するのですか。わたしの話したことを聞いた人たちに質問しなさい。ご覧なさい,これらの人たちが,わたしの言ったことを知っています」。22 彼がこれらのことを言うと,そばに立っていた下役の一人がイエスの顔に平手打ちを加え,「祭司長に向かってそんな答え方をするのか」と言った。23 イエスは彼に答えられた,「わたしの話したことが間違いであるなら,その間違いについて証ししなさい。しかし,正しいのであれば,なぜわたしを打つのですか」。24 それからアンナスは,彼を縛ったまま大祭司カヤファのもとに送った。

 

 

 

マルコでは、ペテロが中庭まで付いて行ったところで、大祭司の裁判に移っている。

マタイはマルコの構成をそのまま継承して写しており、その後に再びペテロの話に戻り、三度イエスの否認した話を取り上げている。

 

ルカは、ペテロが「大祭司の館の中」まで付いて来たことに続けて、ペテロが三度否認する話を取り上げ、大祭司の裁判をその後に置く構成としている。

 

おそらく、ルカとしてはペテロの話をまとめて取り上げた方が1:3「順序よく」(kathaexEs)記しているつもりなのだろう。

ルカの「順序」(NWT「論理的な順序」)に従がうと、大祭司の裁判は、鶏が三度鳴いた後の翌日の出来事でなければならなくなる。

 

ほかの三つの福音書では、大祭司邸での裁判は、夜中のうちになされている。

ルカが話の順番を変えた構成にした結果、ルカの話には時間的な矛盾が生じることになった。

 

イエスは逮捕された後、大祭司邸に連れて行かれる。

 

マルコ14

53そしてイエスを大祭司のもとに連れて来た。そして祭司長、長老、律法学者がみな集まってくる。54そしてペテロが遠くから彼に従って来て、大祭司の中庭の中まで来た。そして下役たちと一緒に座って、火で暖まっていた。

 

マタイ26

57彼らはイエスを捕らえて、大祭司カヤファのもとに連れて来た。そこに律法学者や長老たちも集って来た。58そしてペテロは遠くから彼に従って来て、大祭司の中庭にまで来て、中に入り、下役たちと一緒に座って、成り行きを見届けようとした

 

ルカ22

54彼らは彼を引きとらえて、大祭司の館の中に連れて来たのだが、ペテロが遠くからついて来た。……

 

参ヨハネ18

12それで部隊と千卒長とユダヤ人の下役たちがイエスをとらえて、縛った。13そして彼をまずアンナスのところに連れて行った。彼はその年の大祭司カヤパの舅であったからだ。

 

 

マルコでは、イエスが「大祭司」のもとに連れて行かれると、祭司長・長老・律法学者が集ってくる。

遠くからではあるが、ペテロも付いて行き、イエスが連れて行かれた大祭司の中庭まで来る。ペテロは、下役たちと一緒に座って、「火」で暖まることにした。

 

マタイは、「大祭司」が「カヤファ」であることを付加し、ほぼマルコをそのまま写しているが、ペテロが下役たちと一緒に座ったのは、「成り行きを見届けようとした」ためであるとしている。

 

マルコでは、イエスの捕縛に際して、ペテロは逃げたのであるが、イエスの逮捕に同行した者たちには、面が割れているので、離れて付いて行ったという設定であろう。

ペテロはそのまま、大祭司の中庭まで来たのであるが、彼らと一緒に座って、「火で暖まっていた」というのである。

 

夜中のことであり、下役たちは、冷えてきたので、たき火の周りに座り、暖を取ろうとしていたのだろう。

ペテロも一緒に座った、というのだから、ペテロも「火で暖まっていた」かっただけであろう。

 

マタイは、マルコの「火で暖まっていた」を削り、ペテロが下役たちと一緒に座っていたのは、「暖を取る」ためではなく、「成り行きを見届けようとした」ためであるとペテロを擁護してくれている。

 

大祭司の僕の耳を切り落としながら、「成り行きを見届けよう」とするのであれば、イエスの逮捕に同行した大祭司の下役たちから離れたところに潜んでいた方が安全であり、「一緒に座り」、わざわざ姿をさらす合理性はないはずである。

 

ルカもマルコと同様、ペテロが大祭司の中庭の焚火のところにイエスの逮捕に同行した者たちと一緒に座っていたとしている。(22:55)

 

ヨハネは、イエスが逮捕されて、最初に拘引されていったのは、大祭司カヤファのところではなく、祭司長アンナスのところであったことを指摘している。(18:13)

ペテロに関しても、ペテロ一人が離れたところからついて行って大祭司の中庭に入って行ったのではなく、大祭司に知られていたもう一人の弟子と一緒であり、彼がペテロを中に入れるよう戸口番の下女に話した、としている。(18:15-16)

 

大祭司の中庭でイエスの裁判が始まる。

まず、イエスを死刑にするための証言が提出される。

 

マルコ14

55祭司長たちと全議会はイエスを死刑にするために、彼に対する証言を探した。しかし見つからなかった。56というのも、多くの者が彼に対して偽の証言をなしたのだが、それらの証言は一致しなかったのだ。57そして何人かの者が立ち、彼に対して偽の証言をなして言った、58「我々はこの者が、自分は手で造られたこの神殿を壊し、三日以内に手で造らないもう一つの神殿を建てるだろう、と言っているのを聞きました」。59そして彼らのこういった証言もまた一致しなかった。

 

マタイ26

59祭司長たちと全議会は、何とかイエスを処刑にするために、彼に対する偽証を探した。60しかし、多くの者が進み出て偽証したのだが、(うまい証言が)見つからなかった。その後更に二人の者が進み出て、61言った、「この者は、自分は神の神殿を壊し、三日以内にまた建てることができる、と言っていました」。

 

ルカ22

66そして朝になった時、民の長老たちが集った。また祭司長、律法学者も。そして彼を自分たちの会議場に連れて行き、67言った、「お前はキリストなのか。我々に言ってみよ」。……

 

 

マルコでは、祭司長たちと全議会(holon to sunedrin)が、イエスを死刑にするために、証言を探したが、偽りの証言は一致しなかった。

「何人かの者」は「手で造られたこの神殿を壊し、三日以内に手で作らないもう一つの神殿を建てるだろう」とイエスが言っていたという偽りの証言をするが、「彼らのこういう証言も一致しなかった」としている。

 

マタイは多くの者が進み出て偽証するが、偽証内容が一致しなかったのではなく、うまい偽証が見つからなかったので、さらに二人の者が進み出て、「自分は神の神殿を壊し、三日以内にまた建てることができる」とする証言が提出される。

 

マルコでは「何人かの者」であるが、マタイは「二人の者」と書き変えた。

律法学者のマタイにとって、裁判の証言は二人か三人の者によって確証されなければならない(申命記17:6-7)のであろう。

 

マルコでは、「三日以内に手で造られないもう一つの神殿を建てるだろう」とイエスが言った、とされているが、マタイでは、「三日以内に神の神殿をまた建てることができる」と言った、とされている。

 

マルコの「三日以内に」(dia trion hEmerOn allon)に対し、マタイはallon=anatherを削除し「三日以内に」(dia trion hEmerOn)としている。

マタイは、allon=anotherを省いているが、意味は同じ。

NWTは「三日で」。

 

ただし、前置詞dia+属格表現は、基本的には「その期間の後に」という意味である。

しかし、この時代の通俗的ギリシャ語(コイネー)においては、「その期間内に」という意味で使われることが多くなると言われている。

 

だが、マルコは2:1ではdia+「日」の属格複数(di hEmerOn)という言い方を、「数日の後に」という意味で用いている。

 

しかし、8:31では、「三日後に」(meta tron hEmerOn)という言い方で、前置詞をdiaではなく、metaを用いて「三日後に」という意味に用いている。

dia=throughではなくmeta=afterであるなら、明確に「三日後に」という意味なるが、diaとなると実は意味が曖昧となる。

 

「三日以内に」と訳すのは、ルターがin drei Tagenと独訳した宗教改革以来の伝統である。

ルターの時点ではまだあいまいであるが、現代独訳では、はっきりとbinnen drei Tagenと訳されている。

ティンダルもwithin three daysと英訳し、欽定訳に引き継がれている。

 

しかし、RSVはin three daysと訳したことにより、和訳では口語訳に引き継がれ「三日の後に」と訳されている。

 

つまり、マルコが「三日以内に」という意味で言っているのか、「三日後に」という意味でdiaを使っているのか、実ははっきりしない。

 

この個所を「以内」か「後」に関わらず、「三日」にこだわるのは、マルコの「手で造らないもう一つの神殿」の再建を「イエスの復活」と結び付けて解釈したいためである。

 

しかし、これはヨハネ2:19-21の「神殿を壊したら、三日で再建する」とイエスが言った、とする言葉に、「これはイエスが自分の身体の神殿について語ったものだ」とするヨハネ書の解釈をマルコに読み込もうとするものであろう。

 

マルコの本論部分に自分自身の身体を「神殿」に譬えたことを示唆するイエス自身の言葉や伝承は存在しない。

 

マタイはマルコの「手で造られたこの神殿」をはっきりと「神の神殿」と書き変えており、「三日以内に建てる」という「手で造らないもう一つの神殿」という表現ではなく、「三日以内にまた建てる」という表現に書き変えている。

 

つまり、マタイはマルコの表現を、「エルサレム神殿」を壊し、再び三日以内に「エルサレム神殿」を再建する、という意味に読んでいたことになる。

 

とすれば、マルコの「手で造られたこの神殿」とはユダヤ教の「エルサレム神殿」を指すものであるが、対比されている「手で造らないもう一つの神殿」とは、必ずしも「イエスの身体の神殿」を示唆するものではないと思われる。

 

マタイにしても、「エルサレム神殿」を指して、「神の神殿」と言っているからといって、「三日以内にまた建てる」と言っているのであるから、建造物としての「神殿」を意図しているのであり、「イエスの身体」という「霊的神殿」を示唆しているわけではない。

 

おそらく、マルコの「手で造られた神殿を壊し、手で造らないもう一つの神殿を建てる」という表現は、元伝承のままに写しているものであろう。

 

「手で造られた神殿」が「エルサレム神殿」を指し、「手で造らないもう一つの神殿を建てる」という表現が「キリスト教会」を示唆すると読ませたいのであれば、その元には、イエスの語った言葉があるのであろうが、キリスト教会による脚色が施され、伝承されている可能性が高い。

 

実際のイエスは、エルサレム神殿に関しては否定的であったが、自分をキリストと結び付けようとするキリスト信仰や終末待望信仰にも否定的であったことは確かであろう。

 

とすれば、「人間の手で造ったこんな神殿を有難がって崇拝していてもしょうがない。それよりも人間の手で造ったものではない事柄の方がはるかに重要だ」という趣旨のイエスの神殿否定とユダヤ教体制に対する批判の言葉が元になっているものではなかろうか。

 

それに、初期キリスト教会が「三日以内に」という表現を付加し、イエスの復活とキリスト教会の正統性を維持しようとするキリスト教信仰を読み込み、受難物語の元伝承を流布させたものと考えられる。

 

しかしながら、元伝承がキリスト教会の創作であるとしたら、「イエスの復活とキリスト教会の正統性」を示唆する伝承を受難物語における「偽証」の中においているのはなぜか。

 

受難物語そのものは、初期キリスト教会により伝承されたものであるにもかかわらず、なぜ、イエス自身にキリスト教の正統性を語らせるのではなく、告発者の「偽証」として語らせているのか。

 

キリスト教会の正統性を担保したいのであれば、イエスの口においた方が権威付になるように思える。


おそらく、自分たちはイエスの後継者であるが、イエスが「エルサレム神殿の崩壊」をイエスが弟子たちとともに企てていた、もしくは望んでいた、というユダヤ教に対して否定的な立場とする批判をかわしたかったのだろう。

 

出発時点のキリスト教会は、まだまだユダヤ教の権威の傘に下にとどまっていたので、自分たちは神殿破壊や神殿崩壊を望んでいるわけではなく、それらの主張はキリスト教に対する偽証であるとユダヤ教の体制側に弁解したかったのであろう。

 

その後、キリスト教が拡大するにつれ、「三日以内に」とするマルコに見られるような元伝承が形成され、その後、イエスの復活とイエスの身体を神殿とするヨハネに見られるようなキリスト教信仰が形成されていったのかもしれない。

 

とすれば、「三日以内に」とするイエスの言葉は、文字通りの「三日」を意味するものではなく、もともとは「短い期間で」という趣旨でイエスが語った神殿批判の言葉を、キリスト教におけるイエスの復活信仰に合わせて、「三日以内に」とキリスト教会が整えてくれたものと考えられる。

 

マルコは、「三日以内に手で造らないもう一つの神殿を建てる」という証言も「一致しなかった」としている。

マルコとしては、ペテロがキリスト教会の親石となるとするキリスト教信仰を否定したかったのかもしれない。

 

マタイは「一致しなかった」というマルコの句を削除している。

 

マタイにとって、エルサレム神殿は「神の神殿」であるし、イエスがまた建てる神殿を「キリスト教会」に想定しているのであれば、どちらも「神の神殿」でなければならず、「二人の者」の証言は、一致していなければならなかったのだろう。

 

ルカは、イエスが大祭司邸の「会議場に」(eis to sunedrion)連れて行かれ、その「会議場」(to sunedrion)で裁判がなされたとしている。

 

もしかしたらルカは、ユダヤ教の慣習にあまり通じておらず、サンヘドリンをユダヤ人に対する全権を持つ義会ではなく、法廷がある場所と考えているのかもしれない。

 

ほかの三福音書の著者とは異なり、ルカは大祭司邸での裁判が、夜半の出来事ではなく、「朝になった時」になされたという設定にしている。

 

「朝になった時」(hOs egeneto hEmera)の直訳は、「昼間になった時」。

 

ルカは、ペテロが大祭司の中庭までついて行った後、続けてペテロが三度イエスを否認する話を取り上げている。

 

その結果、ペテロのイエス否認は、大祭司邸での裁判が始まる前の出来事でなければならなくなった。

 

夜が明ける前に鶏が三度鳴く、というイエスの予告が成就しなければならないのであるから、必然的に大祭司邸での裁判は、夜が明けてから、という話でなければならなくなったのである。

 

大祭司邸の中庭に拘引され、すぐに裁判が始まるのではないので、イエスは一晩中拘束されていることになる。

 

ルカは、ペテロのイエス否認だけでは間が持たないと思ったのだろう。

マルコでは、大祭司の裁判後、下役たちに嘲弄される(14:65)のであるが、ルカはペテロのイエス否認の後に、下役たちがイエスを嘲弄する場面(22:63-65)を組み込んでいる。

 

他の福音書では、大祭司邸での裁判は、夜中のうちになされている。

だから、翌朝すぐに、イエスをピラトの前に突き出すことができたのである。(マルコ15:1並行)

 

しかし、ルカは朝になってから、ようやく大祭司邸での裁判が始まることになったので、ピラトのもとに行くのが大幅に遅れることになる。(23:1)

 

朝から大祭司邸で裁判をして、その後ピラトのところでもう一度裁判をして、それから判決が出て、十字架の準備をして、ゴルゴタの丘まで引っ張って行って、そこで十字架につける、ということになると、かなりの時間を有するはずである。

 

マルコは、イエスの十字架処刑が第三時(午前九時)だったとしている。(15:25)

ルカは削除している。

 

ルカとしては、朝から二つの裁判を実施し、緊急の十字架刑に処するのに、朝の九時にはすでに十字架につけられていました、というわけにはいかない。

 

十字架刑そのものも大幅に遅れざるを得なくなる。

 

それで、ルカはイエスの十字架刑が第三時だったとするマルコ15:25を削除することにしたのだろう。

 

ただし、マルコの第三時とするイエスの十字架刑の開始時を削除しているのは、ルカだけではない。

 

マタイとヨハネは、大祭司邸の裁判が夜中であり、ピラトの裁判が翌朝のことであり、第六時(正午)に闇が覆い、イエスが息を引き取ったのは第九時(午後三時)であったとするマルコの時間の流れは踏襲しつつも(マタイ27:57、ヨハネ19:31参照)、イエスの十字架刑が第三時に始まったとするマルコの時間割を支持しているわけではない。

 

つまり、マルコによる三時間ごとに区切られた時間設定にも無理があり、イエスの受難物語を正確に事実そのままに伝承しているのでもないであろう。

 

ルカはルカで、自分の文章構成上の図式に従がって、受難物語を設定しているが、マルコはマルコで、三時間刻みの時間設定で受難を描いている。

 

マルコの時間設定にも無理があるし、おそらく受難物語そのものが図式的な設定で伝承されていたのであろう。

 

マタイは基本的にマルコを踏襲しているが、ヨハネの受難物語にはマルコにはない細かな情報が数多く指摘されている。

 

受難物語において、マルコとヨハネに食い違う部分がある場合、マルコよりもヨハネの方が信憑性が高いと思われる。

 

 

大祭司がイエスに対する聴く気の無い聴聞を始める。

 

マルコ14

60そして大祭司が真ん中に立ち、イエスを尋問して言った、「前は何も答えない。この者たちがお前に対してどう証言しているのか」。61彼は黙ったまま、何も答えなかった。再び大祭司が彼を尋問して、言う、「お前は誉むべき者の子キリストであるのか」。62イエスは言った、「それはあなたが言っておいでのことだ。あなた方は人の子が力の右に座し、天の雲とともに来るのを見るであろう」。

 

マタイ26

62そして大祭司が立ち、彼に言った、「お前は何も答えない。この者たちがお前に対してどう証言しているか」。63イエスは黙っていた。そして大祭司が彼に言った、「生ける神に誓って、お前に言う、我々に答えよ。お前はの子キリストであるのかどうか」。64イエスは彼に言う、「あなたがそう言っておいでなのだ。むしろ私はあなた方に言う、今から後あなた方は人の子が力の右に座し、天の雲の上にのって来るのを見るであろう」。

 

ルカ22

66……民の長老たちが集った。また祭司長律法学者もそして彼を自分たちの会議場に連れて行き、67言った、「お前はキリストなのか。我々に言ってみよ」。彼は彼らに言った、「あなた達に言ってやっても、信じないだろう。68私があなた達に問うても、あなた達は答えまい。69今から後、人の子は神の力の右に座すことになろう」。70皆が言った、「ではお前は神の子のか」。彼は彼らに対して言った、「それはあなた達が言っておいでのことだ」。

 

参ヨハネ18

19それで祭司長がイエスに、その弟子たちについて、またその教えについてたずねた。20彼にイエスが答えた、「私は世に対して正々堂々と語って来た。私はいつも会堂や神殿で教えた。そこにはすべてのユダヤ人が集って来る。そして隠れたところでは私は何も語らなかった。21あなたは何を私におたずねになりたいのだ。聞いた人たちに、私が彼らに何を語ったのかおたずねになるがよい。見よ、この者たちは私の言ったことを知っている」。

 

 

マルコでは、大祭司が尋問するが、イエスは答えないし、偽りの告発者の偽証に関しても、イエスは黙ったまま、何も答えない。

 

マルコはここで、13章までによく見られたkai…をつなぎとする接続小辞で文を始めるのではなく、ho de…という文頭で、主語の交代する場合のギリシャ語としてはもっとも普通の言い方で、文を始めている。

61「彼は…」、62「彼は…」、63」「大祭司は…」、64彼らは皆…」とすべて、マルコ13章までには見られないdeという接続小辞を使う文が増えている。

 

マルコが伝承のままのギリシャ語の表現をそのまま写していることの傍証。

 

マルコのイエスが答えるのは、大祭司の「お前は誉むべき者の子キリストか」という質問に対してである。

定冠詞付き「誉むべき者」(tou eulogEtou)という表現は、「神」を指すユダヤ教的婉曲表現。

 

おそらく受難物語伝承を最初に作った人たちは、キリスト教徒ではあっても、まだまだユダヤ教の枠内で生きており、「神」の名を直接口にするのを避け、定冠詞付き「誉むべき者」(tou eulogEtou)という表現で伝承を流布させたのであろう。

 

マタイは、「生ける神に誓って、お前に言う、我々に答えよ」という句を付加し、「お前は神の子キリストであるのかどうか」と言い換えている。

 

マタイの時代には、イエスが「神の子キリストである」というキリスト教信仰がドグマとして定着していたことが理解できる。

 

ルカは大祭司の裁判の場面を極端に縮めており、イエスに対する告発者の偽証や「神殿」を三日以内で再建するとする証言もすべて削除している。

 

ルカにおける大祭司側の関心は、「イエスがキリストなのか、否か」の一点に集約されている。

 

大祭司邸での裁判であるのに、この場面のルカには大祭司は登場しない。

 

ルカにとっては、イエスが「神の子」であり、イエス・キリストが人類救済の成就のために十字架につけられることが、重要なのであり、イエスが殺害される経緯に関しては特に関心がないのであろう。

 

マルコにとって「大祭司の裁判」は、大祭司がイエス殺害の首謀者であることを明らかにする重要な場面である。

 

大祭司の「お前は誉むべき者の子キリストか」という質問に、マルコのイエスは「それはあなたが言っておいでのことだ」と答える。

 

直訳は、「私がそうだということは、あなたが言っておいでのことである」(su eipas hoti ego eimi)。

 

マタイの方は単に「あなたが言っておいでのことである」(su eipas)。「私がそうだということは」(hoti ego eimi)という句を削除している。

 

マルコの個所には、異読があり、アレクサンドリア系と西方系は、「あなたが言っておいでのことである」を削除しており(ネストレも採用)、「私がそうだ」(ego eimi)とあるだけ。

 

NWT「私が[その者]です」(KI: ego eimi)もこちらの読みを採用したもの。

 

それに対し、カイサリア系(Θ、13、565、700、2542)は、「私がそうだということは、あなたが言っておいでのことである」(su eipas hoti ego eimi)と、「あなたが言っておいでのことである」(su eipas)を付けている。

 

ネストレ等が、マルコの「あなたが言っておいでのことだ」とする句を削除しているのは、マタイとマルコの共通の句は、マルコにマタイを持ち込んだものとする解釈からである。

 

しかしながら、マルコがマタイを写しているのではなく、マタイがマルコを写しているのだから、マタイにマルコと共通の句があるのは当然のことであろう。

 

カイサリア系の写本には、「私がそうだということは、あなた方が言っておいでのことである」(su eipas hoti ego eimi)とあるのだから、こちらの方がマルコの原文である可能性がはるかに高い。

 

マルコから、「あなた方が言っておいでのことである」(su eipen)という句を削りたいのは、「イエスはキリストである」というキリスト教の絶対的信仰ドグマを守りたいからであろう。

 

カイサリア系の「私がそうだということは、あなた方が言っておいでのことである」とする読みを取ると、「イエスがキリスト(メシア)だ」ということは、イエス自身の意見ではなく、イエスを告発しようとする者たちが言いふらしたことだ」という意味になる。

 

イエスには自分自身が「キリスト(メシア)」とする自覚も認識もなく、むしろそのような意見には否定的であったことになる。

 

これは、マルコにおけるイエス像とは一致するが、正統的キリスト教におけるイエス像は否定することになる。

 

しかし、マルコの「あなたが言っておいでのことだ」(su eipas)がなければ、「私がそれだ」(ego eimi)だけの文となり、「イエスが自分で自分がキリストだ」と断言した文になる。

 

おそらく、キリスト信仰が確立した以降のキリスト教の写本家からすれば、「あなたが言っておいでのことだ」というマルコの二語を削りたかったのだろう。

 

逆に、マルコの原文が「私がそれだ」(ego eimi)だけの文だとすれば、キリスト教ドグマの信奉者である写本家が、「あなたが言っておいでのことだ」というわざわざキリスト教絶対ドグマを否定しかねない文を付加する可能性はないであろう。

 

マタイには、「私がそれだ」(ego eimi)とする句はなく、「あなたが言っておいでのことだ」(su eipas)とあるだけである。

 

マタイにとっても、イエスがキリストであるというキリスト信仰は絶対的な信条であった。

マルコではペテロが「あなたこそキリストです」と答えた際に、「誰にも言うな」と厳しく叱った(8:27)ことを、マタイは、「あなたこそ、生ける神の子です」と答えさせ、イエスがペテロの信仰告白を誉めたことにすり替えている。(16:16)

 

つまり、もしマルコの文に「あなたが言っておいでのことだ」(su eipas)という文がないのであれば、イエスがキリストであることを否定しかねない文(hoti ego eimi)をわざわざマタイが付加する可能性はありえないことである。

 

おまけに、マタイは「私がそうだという」(hoti ego eimi)という従属句は削除し、主文となる「あなたが言っておいでのことだ」(su eipas)だけを残している。

 

マタイがマルコの従属句を削ったのは、「おまえは神の子キリストであるのかどうか」という文に、マルコにはない「生ける神に誓っ、お前に言う、我々に答えよ」という句を付加しているので、「私がそうである」という句を入れると文体上くどくなると思ったのかもしれない。

 

ただし、「私がそうである」(hoti ego eimi)という句を削るなら、イエス自身がキリストであることを肯定することにはならないものの、少なくても、自分がキリストであることを否定するものとはならない。

 

もしかしたら、マルコの「私がそうだという」(hoti ego eimi)という従属句を削るために、マタイは「生ける神に(tou theou tou mOntos)誓って答えよ」という句を付加し、ペテロの信仰告白の時と同じく、イエスを「生ける神の子キリスト」(ho chritos ho hulos tou theou tou mOntos)の意味に読ませたかったのかもしれない。

 

ルカも、「それはあなた達が言っておいでのことだ」(humeis legete hoti ego eimi)とマルコと動詞は異なるが、同じ意味のことを複数形の主語を置いて書き直してくれている。

 

ルカもマルコを見て書いているのであるから、マルコの文に「それはあなたが言っておいでのことだ」(su eipas hoti ego eimi)という文があったと考えられる。

 

マルコ14:62に「あなたが言っておいでのことだ」という句を入れている和訳聖書は田川訳だけである。

ほかはすべて、「私がそれである」とイエスがキリストであることを肯定している訳となっている。

 

他の英訳聖書も同様である。

 

イエスは「それはあなた方が言っておいでのことだ」という答えに続けて、終末の「人の子」預言を語る。

 

マルコ14

62……あなた方は人の子が力の右に座し、天の雲とともに来るを見るであろう」。

 

マタイ26

64……むしろ私はあなた方に言う、今から後あなた方は人の子が力の右に座し、天の雲の上にのって来るのを見るであろう」。

 

ルカ22

67言った、「お前はキリストなのか。我々に言ってみよ」。彼は彼らに言った、「あなた達に言ってやっても、信じないだろう。68私があなた達に問うても、あなた達は答えまい。69今から後、人の子は神の力の右に座すことになろう」。70皆が言った、「ではお前は神の子なのか」。彼は彼らに対して言った、「それはあなた達が言っておいでのこと」。

 

 

大祭司の「イエスがキリストか否か」という尋問に対して、旧約の二箇所から組み合わせて、終末時の「人の子」預言を語るというのは、いかにも取って付けたような感じである。

 

マルコ・マタイの「力」は「神」の言い換えであり、ルカは「神の力の右に座す」と書き変えている。

 

「神の右に座す」という表現は、詩編109(110):1に出て来るもので、新約に度々登場する。(マルコ12:36並行、使徒2:34,5:30,7:56ほか)

 

「人の子が天の雲に乗って来る」という概念はダニエル7:13に出て来るが、ダニエル書では「人の子如き者」であり、「人の子」ではない。

 

マルコの「天の雲とともに」(meta tOn nephelOn tou ouranou)とマタイの「天の雲の上にのって」(epi tOn nephelOn tou ouranou)は、前置詞の違いだけであり、マタイがマルコのmetaでは「人の子」の到来が認識できないと思い、epiに変えてくれたのであろう。

 

あるいは両方の言い方の伝承が存在していたのかもしれない。

 

イエス自身は、マルコ13章の終末予言とされる個所からも明らかなように、自分を最期の審判者となる終末の「人の子」と同一視してはいなかったと思われる。

 

元伝承は、おそらく、前文の「それはあなたが言っておいでのことだ」とイエスが相手を拒否する答えをしたところで終わっていたのであろう。

 

「人の子」預言は、もともとイエス自身の言葉ではなく、それではあまりにも愛想が悪いと思った伝承者が、自分たちの終末待望論を組み込み、伝承させたものであろう。

 

ルカは「人の子は神の力の右に座す」という詩篇からの慣用句をマルコとは異なり、「それはあなた達が言っておいでのことだ」とする答えの前におき、「キリストか」という質問に対するイエスの答えではなく、「神の子か」という質問の答えとしている。

 

ルカは「キリスト」も「人の子」も「神の子」も全部、イエスを指す同じ概念だと思い、「神の子か」という質問に答えさせることにしたのであろう。

 

マルコは、「キリスト」という概念と「人の子」という終末のメシア概念とは異なるものとして扱っている。

マルコにとってもイエスはキリストであるが、マルコは終末に此の世に現われる「人の子」がイエスであると信じているわけではない。

 

大祭司はイエスの返事を聞き、死罪の判決を下す。

 

マルコ14

63大祭司は自分の衣を引き裂き、言う、「我々はこれ以上証人の必要があろうか。64汝らはこの冒涜を聞いたか。汝らはどう思うか」。彼らは皆、彼は死罪に値すると断じた。65そしてある者たちが彼につばを吐かけ、目隠しをし打ち叩きはじめて言った、「預言してみろ。そして下役たちも彼をぶんなぐった。

 

マタイ26

65その時大祭司は自分の衣を引き裂いて、言った、「これは冒涜。我々はこれ以上証人の必要があろうか。見よ汝らは今この冒涜を聞いたではないか。66汝らはどう思うか」。彼らは答えて言った、「死罪に値する」と。67その時、彼らは彼の顔につばを吐きかけたり、打ち叩いたりし、またある者たちはぶんなぐって、68言った、「俺たちに預言してみろよ。キリストさんよ。お前を叩いたのは誰か」。

 

ルカ22

63そして彼をつかまえていた者たちは、彼を嘲弄して、鞭で打ち叩いた。64そして目隠しをして、たずねて言った、「お前を叩いたのが誰だか預言してみろ」。65そのほか多くのことを誹謗して彼に言った。

……

71彼らは言った、「我々はこれ以上証言の必要があろうか。我々自身が彼の口から聞いたのだから」。

 

参ヨハネ18

19それで祭司長がイエスに、その弟子たちについて、またその教えについてたずねた。20彼にイエスが答えた、「私は世に対して正々堂々と語って来た。私はいつも会堂や神殿で教えた。そこにはすべてのユダヤ人が集って来る。そして隠れたところでは私は何も語らなかった。21あなたは何を私におたずねになりたいのだ。聞いた人たちに、私が彼らに何を語ったのかおたずねになるがよい。見よ、この者たちは私の言ったことを知っている」。22彼がこう言うと、そばに立っていた下役の一人がイエスを殴って、言った、「祭司長様に対してそういう返事の仕方をするのか」。23彼にイエスが答えた、「もしも私が悪しく語ったというのなら、何が悪いのか証言してみろ。だが、良く語ったのなら、どうして私を打つのだ」。24それでアンナスは彼を縛ったまま大祭司カヤパのもとに送った。

 

 

マルコでもマタイでも、大祭司は、イエスの罪状を「冒涜」と宣言し、祭司長と全会議が「死罪」に断じた。

 

ルカでは、イエスは大祭司邸に連れて行かれる(22:54)が、裁判の場面に大祭司は登場せず、民の長老たち・祭司長・律法学者が尋問する。

ルカのイエスは、大祭司に答えるのではなく、「彼ら」(民の長老たち・祭司長・律法学者)に答える。

 

ルカでは、イエスを「冒涜」とすることも「死罪」に定めることもしない。

「我々はこれ以上証言の必要があろうか。我々自身が彼の口から聞いたのだから」と言うだけである。

 

ルカにおいてイエスを死罪に定めるのは、大祭司や全議会ではなく、ユダヤ人群衆の同調圧力に屈したピラトである。(23:23-24)

 

参ヨハネでは、祭司長アンナスがイエスに尋問するが、偽証により死罪に処するためではなく、「弟子たちについて、またその教えについて」尋ねる。

マルコやマタイとは異なり、イエスがキリストか否か、たずねることも、イエスが「人の子」預言を語ることもしない。

 

ヨハネのイエスは祭司長の質問に直接答えることはせず、「聞いた人たちに、私が彼らに何を語ったのかお尋ねになるがよい」と答えるだけである。

 

イエスの祭司長に対する答え方が気に入らなかった下役が、イエスを殴るが、祭司長はイエスを「死罪」に定めるのではなく、大祭司カヤパのもとに送る。

 

ヨハネにおいて、イエスを死罪に定めるのは、ルカと同じくピラトである。(19:16)

ただし、詳細はルカとは異なっている。

 

マルコでは、大祭司の判決が下ると、「ある者たち」がイエスを嘲弄し、打ち叩き、「預言してみろ」と言い、「下役たち」も加わり、殴る。

 

マルコの「つばを吐き」、「目隠しをし」、「打ち叩き」、「言った」の四つの動詞はすべて不定詞で、その前に「…はじめた」(Erchanto)という主動詞の未完了過去が付いている。

 

この「…はじめた」に不定詞を続ける言い方はマルコに良く見られるものであるが、不定詞を連続して繋ぐ言い方はマルコのものではなく、伝承によるものであろう。

 

「打ち叩く」(kolaphizO)は、語源的には、小鳥などが地面をついばむ場合に用いる動詞(kokaptO)から派生したもので、どちらかと言うと「軽く叩く」という感じ。

NWT「こぶしで殴り」。

 

「ぶんなぐる」(rhapismasin elabon)という表現で、直訳は「ぶんなぐりをもって彼を受け取った」。

「ぶんなぐりをもって」(rhapismasin)は、「棒」「杖」(rhabdos)から派生しているので、「強く殴る」という感じになる。

「受け取る」(elabon)は特に訳す必要のない一種の修辞的表現で、「ぶんなぐる」と同じ趣旨。

NWT「平手で打って」。

 

NWTだけではないが、趣旨が逆になっている。(口語訳、新共同訳等も)

棒で殴られるよりも、小鳥につつかれる方が苦痛なのであろう。

 

マタイでは、イエスを嘲弄し、打ち叩くのは、イエスを死罪に価すると裁断した「彼ら」であり、「ある者たち」がぶんなぐり、「イエスを叩いたのは誰か、預言してみろ」と言う。

 

マルコの「預言してみろ」とは、誰が殴ったか言い当てて見よ、という意味ではなく、「お前がキリストもしくは預言者だというのであれば、何か預言して、言ってみろ」という意味。

 

マタイは、マルコの「預言してみろ」を「誰が殴ったか言い当てて見よ」という意味に読んだのであろう。

 

ルカは、イエスに対する嘲弄を大祭司邸での裁判の前の、ペテロの否認に続く、位置においているが、「彼をつかまえていた者たち」が、マタイと同じく、64お前を叩いたのが誰だか預言してみろ」と言ったとしている。

 

ルカもマタイと同じく、マルコの「預言してみろ」という表現を、「誰が叩いたか、当ててみろ」という意味に読んだのであろう。