マルコ3:20-35 <イエスの家族、ベエルゼブル論争>
並行マタイ12:24-32,46-50、ルカ11:14-23,8:19-21 参照マタイ9:32-34、ルカ12:10
マルコ3
20そして家にはいる。そしてまた群衆が集まって来る。彼らはパンを食べることさえできないほどである。21そして彼の家族の者たちが聞いて、彼をつかまえに出て来た。彼は正気でない、などと言っていたからだ。
22そしてエルサレムから下って来た律法学者たちが、彼はベエルゼブルを持っていて、悪霊どもの支配者(ベエルゼブル)によって悪霊どもを追い出しているのだ、と言っていた。23そして彼はその律法学者どもを呼びよせ、譬えを用いて彼らに言った、「どうしてサタンがサタンを追い出すことができようか。24そしてもしも一つの国が自分自身に対して分裂したら、その国は立つことができない。25そしてもし一つの家が自分自身に対して分裂したら、その家は立つことができない。26そしてもしもサタンが自分自身に対立し、分裂したら、立つことができず、終わってしまう。27また、誰でも強い者の家に押し入って、その家財を奪うには、まずその強い者を縛るのでないと、奪うことができない。その時にはじめてその家を略奪できるであろう。28アメーン、あなたに言う。人の子らには一切が赦される。罪であろうと、どんな冒涜を犯そうと。29しかし聖霊に対して冒涜する者は永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」30これは彼らが、彼は汚れた霊をもっているなどと言っていたからである。
31そして彼の母と兄弟たちが来る。そして外に立って、人をやって彼を呼ばせた。32そして彼のまわりには群衆が座っていた。そして彼に言う、「ごらんなさい、お母上や御兄弟たちが、外であなたを探しておいでです」。33そして答えて彼らに言う、「私の母、私の兄弟とは誰のことです?」。34そして自分のまわりを囲んで座っている者たちを見まわして言う、「見よ、これぞ我が母、我が兄弟。35神の意思を行なう者こそが私の兄弟、姉妹。母であるからだ」。
マタイ12
22その時、彼のもとに悪霊に憑かれた盲人の聾者が連れてこられた。そして彼はその人を癒した。聾者が話し、見ることができるようになったのだ。23そして群衆はみなびっくりして、言った、「まさかこの者がダヴィデの子なのではなかろうね」。
24パリサイ派はこれを聞いて言った、「この者が悪霊どもを追い出しているのは、悪霊どもの支配者であるベエルゼブルによる以外ではありえない」。25彼は彼らの思いを知って、彼らに言った、「自分自身に逆らって分裂する国は全て荒廃する。また自分自身に逆らって分裂する町や家はすべて立つことがない。26もしもサタンがサタンを追い出しているのなら、自分自身に対して分裂したことになる。それでどうしてその国が立つことがあろうか。27またもしも私がベエルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなた方の子らは何によって追い出しているのか。こうして、あなた方の子ら自身があなた方の批判者となる。28もしも私が神の霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、それなら、神の国があなた方のところに来たのだ。29また、強い者の家に押し入って、まずその強い者を縛るのでないと、どうしてその家財を奪うことができようか。その時にはじめてその家を略奪できるであろう。30私とともにいるのでない者は、私に反対する者であり、私とともに集めない者は、散らす者である。31この故にあなた方に言う、人間に対してはいかなる罪も冒瀆も赦される。しかし霊の冒瀆は赦されない。32また、人の子に反対して言葉を言う者は赦されるであろう。しかし聖霊に反対して言う者は、此の世においても来たるべき世においても、赦されることがない。
マタイ12
46彼がまだ群衆に対して語っている間に、見よ、彼の母と兄弟が彼と話をしようとして、外に立っていた。47そしてある者が彼に言った、「ごらんなさい、お母上と御兄弟が外に立って、あなたに話したいとおっしゃっておられます」。48彼は、そう言ってくれた者に対して答えて言った、「私の母とは誰のことです。また私の兄弟とは」。49そして自分の手を弟子たちの上にのばして言った、「見よ、これぞ我が母、我が兄弟。50天にいます我が父の意志を行なう者こそが私の兄弟、姉妹、母であるからだ」。
参マタイ9
32彼らが出て行くと、見よ、彼のところに悪霊につかれた聾唖者が連れて来られた。33そして、悪霊が追い出されると、その聾唖者が話すようになった。そして群衆が驚いて、言った、「このようなことはこれまでイスラエルで見られたことがない」。34パリサイ派が言った、「悪霊どもの支配者によって悪霊どもを追い出しているのだ」。
ルカ11
14また彼は悪霊を追い出していた。この悪霊は聾の霊であった。悪霊が出て行くと、その籠者はものを言ったのである。そして群衆は驚いた。
15彼らのうちの何人かが言った、「この人は悪霊どもの支配者であるベエルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのだ」。16ほかの者はまた(彼を)試みて、天からの徴を彼から求めた。17彼は彼らの思いを知って、彼らに言った、「自分自身に対して分裂する国はすべて荒廃する。また家は家の上に倒れる。18もしもサタンが自分自身に対して分裂するなら、どうしてその国が立つことがあろうか。あなた方が、私がベエルゼブルによって悪霊どもを追い出している、などと言うからだ。19もしも私がベエルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなた方の子らは何によって追い出しているのか。こうして、あなた方の子ら自身があなた方の批判者となる。20もしも私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、それなら、神の国はすでにあなた方のところに到来したのだ。21強い者が武装して自分の屋敷を守る時は、その財産は安全である。22しかしもっと強い者がやってきて、その者を打ち負かせば、その者が頼りにしている武装を解除し、分捕品を(手下どもに)分け与えることになる。23私とともにいるのでない者は私に反対する者であり、私とともに集めない者は散らす者である。
ルカ8
19彼のもとに母と兄弟がやって来たのだが、群衆のせいで、うまく合うことができなかった。20そこで彼に、「お母上と御兄弟があなたにお会いしたいと外に立っておいでです」と告げられた。21彼は答えて彼らに対して言った、「神の言葉を聞いて行なう者こそが私の母、私の兄弟である」。
ルカ12
10また人の子に向かって言葉を言うものは皆、赦される。しかし聖霊に向かって冒涜する者は赦されない。
参マルコ9
40我々に反対でない者は、我々に賛成するものなのだ。
並ルカ9
50イエスは彼に対して言った、「妨げてはいけない。あなた達に反対でない者は、あなた達に賛成する者なのだ」。
マルコにおけるこの話は、3つの部分で一つの話が構成されるいわゆるサンドイッチ型構造を成している。
前後に置かれたイエスの家族に関する話の間にベエルゼブル論争が挟まっている構成。
20-21のイエスの家族の者たちが、正気ではないと言い、イエスをつかまえに来た話と31-35の真の意味でイエスの母、兄弟とは誰か、というイエスの説教の間に、律法学者たちが、イエスを悪霊どもの支配者だと非難した話が挟まっている。
前後にある「イエスの家族」に関する伝承は、本来は一つの伝承として完結して語られていたものと思われる。
それを二つに割って、間に「ベエルゼブル論争」をサンドイッチさせたのは、マルコであり、何らか意図が働いているのであろう。
マタイとルカは、マルコのサンドイッチ構造を崩している。
イエスの家族の話とベエルゼブル論争とはそれぞれ別々の個所に置いており、それぞれを別々の伝承として扱っている。
マルコにおける同じようなサンドイッチ構造は、他に「ヤイロの娘と長血の女」の話(5:21-43)や「弟子派遣と洗礼者ヨハネの死」の話(6:7-31)、「イチジクの木の呪いと宮清め」の話(11:12-26)にも見られる。
この構造は、マルコをそのまま写している箇所を別にして、マタイやルカには見られない編集構成である。
マルコには、このサンドイッチ構造の変形と思われる箇所が、ほかにも、「種まく者の譬」と「その解説」の間にいわゆる「譬論論」が組み込まれている話(4:1-20)。
「四千人の共食」と「パリサイ派のパン種」の間に「天からの徴」を求める話(8:1-21)が組み込まれている箇所が挙げられる。
一つの伝承は、個別の伝承として本来完結しているものである。
それを、敢えて前後に割って、間に別の話を組み込むというのだから、何らかの意図を持って編集しているのは間違いない。
本来は二つの別々の伝承であったものの、その一つを二つに割って、別の伝承と組み合わせて、一つの伝承であるかのように再構築させているのである。
とすれば、本来別々の意義を持っていたであろう二つの伝承を、あくまでも一つの伝承として再構築しているのだから、二つの伝承を本質的には同じ意味を持っている伝承として示そうとしたのであろう。
この場合で言えば、前後に置かれた「イエスの家族」の話とエルサレムから下って来た律法学者たちの「ベエルゼブル論争」とは、本質的には、同質の出来事に解釈できるということを示そうとしたのではないかと思われる。
具体的には、イエスの家族がイエスを「気が変になってしまった」としてつかまえようとして出てきたことは、律法学者たちがイエスを「悪霊たちの支配者」として非難したことと本質的には同じである、というマルコの批判が意図されているのだろう。
「ベエルゼブル論争」の結びであるマルコのまとめの句は、律法学者たちがイエスを30「汚れた霊を持っている」と言っていたからである、というもの。
イエスの時代、「気が変になる」ということは「悪霊の仕業」と考えられていたのであるから、律法学者たちの「イエスが汚れた霊を持っている」という批判は、そのまま、「イエスの家族」がイエスに対して持っていた「気が狂っている」という批判と本質的には同質である。
マルコが、「エルサレム」から来た律法学者と前半の「イエスの家族」、後半では「イエスの母と兄弟たち」を同質に置いているとすれば、そこには、マルコの当時、エルサレムで原始キリスト教団の指導者となっていたイエスの兄弟たちに対する批判も同居しているのだろう。
後半の「イエスの家族の話」の結びは、「神の意志を行なう者こそがわたしの兄弟、姉妹、母」であるというもの。
マルコのイエスは、母親や兄弟たちに対して、背を向け、まわりに居る「群衆」に対して答えている。
つまり、マルコからすれば、イエスの母や兄弟は、「神の意志を行なう者」ではなかった、という評価だったのである。
「ベエルゼブル論争」は、イエスとエルサレムの律法学者との間の論争であるから、その批判は直接的には、ユダヤ教の宗教体制やその指導者たちに向けられたものである。
彼らがイエスと共に「神のご意思を行なう者」ではなかったことは明らかである。
「エルサレムの律法学者」に向けられた批判に続けて、マルコのイエスは「外に立って、人をやって彼を呼ばせた」イエスの母や兄弟たちに対して、「私の母、私の兄弟とは誰のことか?」と問いかけるのである。
そして、イエスの母や兄弟たちに対しては背を向けるようして、「自分の周りを囲んで座っている者たち」に対して、「見よ、これぞ、我が母、我が兄弟」。
彼らこそ、「神の意志を行なう者」であるとマルコのイエスは語るのである。
マルコの意図は明らかであろう。
おそらくマルコ当時、エルサレムのキリスト教団は、イエスの弟であるヤコブが中心となり、親族たちもその周りにいて、ユダヤ教体制と同様の権威主義体制を構築し、閉鎖的な教団運営をしていたのであろう。
そのことは、後半の「イエスの家族」の話で、イエスの母と兄弟たちが、「人をやってイエスを呼ばせた」という表現からも推察できる。
マルコの眼には、イエスの母や兄弟たちが、イエスの理念や意思を無視して、イエスの名に便乗し、キリスト信者の上に君臨しようとしている存在に映っていたものと思われる。
「ベエルゼブル論争」において、イエスが「悪霊どもの支配者」であるから、「悪霊を追い出しているのだ」と批判を展開する。
その主張に対して、イエスは反論する。
マルコのイエスは、「エルサレムから下って来た律法学者たち」に対して。
マタイのイエスは、「パリサイ派」に対して。
ルカのイエスは、「群衆」に対して。
ルカの「ほかの者」とは、イエスをベエルゼブル扱いした「群衆」以外の「群衆」を指す。
マルコ3
23そして彼はその律法学者どもを呼びよせ、譬えを用いて彼らに言った、「どうしてサタンがサタンを追い出すことができようか。24そしてもしも一つの国が自分自身に対して分裂したら、その国は立つことができない。25そしてもし一つの家が自分自身に対して分裂したら、その家は立つことができず、終わってしまう。26そしてもしもサタンが自分自身に対立し、分裂したら、立つことができず、終わってしまう。27また、誰でも強い者の家に押し入って、その家財を奪うには、まずその強い者を縛るのでないと、奪うことができない。その時にはじめてその家を略奪できるであろう。28アメーン、あなたに言う。人の子らには一切が赦される。罪であろうと、どんな冒涜を犯そうと。29しかし聖霊に対して冒涜する者は永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」。
マルコのイエスの反論はこれで終わる。
マタイ12
25彼は彼らの思いを知って、彼らに言った、「自分自身に逆らって分裂する国は全て荒廃する。また自分自身に逆らって分裂する町や家はすべて立つことがない。26もしもサタンがサタンを追い出しているのなら、自分自身に対して分裂したことになる。それでどうしてその国が立つことがあろうか。27またもしも私がベエルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなた方の子らは何によって追い出しているのか。こうして、あなた方の子ら自身があなた方の批判者となる。28もしも私が神の霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、それなら、神の国があなた方のところに来たのだ。29また、強い者の家に押し入って、まずその強い者を縛るのでないと、どうしてその家財を奪うことができようか。その時にはじめてその家を略奪できるであろう。30私とともにいるのでない者は、私に反対する者であり、私とともに集めない者は、散らす者である。31この故にあなた方に言う、人間に対してはいかなる罪も冒涜も赦される。しかし霊の冒涜は赦されない。32また、人の子に反対して言葉を言う者は赦されるであろう。しかし聖霊に反対して言う者は、此の世においても来たるべき世においても、赦されることがない。…
マタイのイエスの反論は続く。
ルカ11
16ほかの者はまた(彼を)試みて、天からの徴を彼から求めた。17彼は彼らの思いを知って、彼らに言った、「自分自身に対して分裂する国はすべて荒廃する。また家は家の上に倒れる。18もしもサタンが自分自身に対して分裂するなら、どうしてその国が立つことがあろうか。あなた方が、私がベエルゼブルによって悪霊どもを追い出している、などと言うからだ。19もしも私がベエルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなた方の子らは何によって追い出しているのか。こうして、あなた方の子ら自身があなた方の批判者となる。20もしも私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、それなら、神の国はすでにあなた方のところに到来したのだ。21強い者が武装して自分の屋敷を守る時は、その財産は安全である。22しかしもっと強い者がやってきて、その者を打ち負かせば、その者が頼りにしている武装を解除し、分捕品を(手下どもに)分け与えることになる。23私とともにいるのでない者は私に反対する者であり、私とともに集めない者は散らす者である。…
ルカのイエスの反論も続く。
マルコのイエスは、24「もしも一つの国や家が自分自身に対して分裂していたら、その国や家は立つことができず、終わってしまう。」
27「強い者」=「悪霊の支配者」を縛るのでないと、「家財」=「配下の悪霊ども」を奪うことはできない、という譬えで反論する。
「悪霊の支配者」より、「より強い者」でなければ、悪霊を追い出し、無力化することはできない、という論理を展開し反論するのである。
三者におけるイエスの論旨は同趣旨であるが、マルコとマタイ・ルカでは、表現が微妙に異なっている。
特にマルコの24「もしも一つの国が自分自身に対して分裂したら、その国は立つことができない」(ean basileia eph heautEn meristhE ou dynatai stathEnai hE basileia ekeinE)という表現が、マタイ25ルカ17では共通して、「自分自身に逆らって分裂する国はすべて荒廃する」(pasa basileia meristheisa kath heautEs erEmoutai)と異なる言葉遣いとなっている。
マタイ12:25-28とルカ11:17-20はほぼ完全に一致している。
イエスの反論がさらに続いている点も、マタイとルカは共通している。
マタイとルカの違いは、マタイが「国」に続いて、25「自分自身に逆らって分裂する町や家はすべて立つことがない」と「家」に「町」を加えているのに対し、ルカは17「また家は家の上に倒れる」と、「家」だけにしていること。
ルカが16「また(彼を)試みて、天からの徴を彼から求めた」という句を付加していること。
マルコにもマタイの並行にもこの句はない。
しかし、マタイの「ベエルゼブル論争」の次の項にある「ヨナの徴」の話(12:38-42)の導入句で、律法学者とパリサイ派がイエスに、38「私たちはあなたからの徴を見せてほしい」と要求している。
マルコでも、「天からの徴とパリサイ派のパン種」の話(8:11-21)の導入句で、パリサイ派が11「天からの徴を求めて、試みた」という伝承を残している。
ルカも、間に短い二つの伝承を挟んでいるが、「ヨナの徴」の話(11:29-32)を「ベエルゼブル論争」のすぐ後に置いている。
ルカでは、間に挟まれている「帰ってくる悪霊」の話(11:24-26)が、マタイでは順番が逆で、「ヨナの徴」話(12:43-45)のすぐ後に置かれている。
どちらかが順番を変えたのか、順番が異なる資料集だったのか。
いずれにしても、Q資料では、「聾者の癒し」と「ベエルゼブル論争」と「帰ってくる悪霊」と「ヨナの徴」伝承はすぐ近くに置かれていたものと推察される。
しかしルカの「ヨナの徴」伝承では、イエスに「徴を求めた」のは、パリサイ派ではなく、「群衆」となっている。
マタイとルカとの間には、細かい違いがあるが、共通点が数多く存在する。
それぞれ独自の編集や付加もあるが、両者が共通資料をベースにしているのは明らかであろう。
ルカが対象を「群衆」としたのは、ルカの「群衆」嫌いが変更させたのもので、Q資料の源伝承は「パリサイ派」であったのだろう。
マタイもルカもQ資料を元にしているが、微妙な違いがあるということは、Q資料にもいろいろあったのであろう。
便宜上マタイとルカの共通資料をQ資料と呼ぶことにしているが、確立された一つの辞書的な資料集のようなものだったわけではなく、同じ伝承にも表現の異なるバージョンが存在したものと思われる。
マタイの個所には、ルカとではなく、マルコと共通する部分もある。
マタイの29「まずその強い者を縛るのでないと、どうして家財を奪うことができようか」(pOs dynatai tis eiselthein eis tEn oikian tou ischyrou kai ta skeuE autou diarpasai)という表現は、マルコの27「誰でも強い者の家に押し入って、その家財を奪うには、まずその強い者を縛るのでないと、奪うことができない」(ou dynatai oudeis ta skeuE tou ischyrou eiselthOn eis tEn oikian autou diarpasai)という論旨も共通しているし、共通の語も多い。
しかし、ルカ11:21-22「強いものが武装して自分の屋敷を守る時は、その財産は安全である。しかしもっと強い者がやって来て、そのものを打ち負かせば、その者が頼りにしている武装を解除し、分捕物を(手下どもに)分け与えることになる」という句は、論旨も、表現も、マルコともマタイとも異なっている。
マタイのこの個所が、ルカではなく、マルコと一致しているのは、マタイがこの部分をQ資料ではなく、マルコに依存しているからであろう。
ルカ11:21-22のロギアは、マルコにもマタイにも登場せず、ルカだけに登場する。
Q資料の源伝承をルカがそのまま写したものかもしれないが、ルカが独自に集めた伝承に差し替えた可能性もある。
マタイ12:30とルカ11:23には、「私とともにいるのではない者は私に反対する者であり、私と共に集めない者は散らすものである」という共通のロギアが納められている。
しかし、マルコの「ベエルゼブル論争」に、このイエスのロギアは存在しない。
マタイ・ルカと似ているこの種のロギアは、マルコの「ベエルゼブル論争」の中にではなく、「よそ者の奇跡行為者」(9:38-50)の中に登場する。
マルコのロギアは、「我々に反対でない者は、我々に賛成する者である」というもの。
マルコの表現はマタイ・ルカと似ているが、根本的に向いている方向が逆である。
マタイとルカのロギアは、自分たちに賛成しない者は、誰でも皆排除する、という排他主義の思想である。
マルコの表現は似ているが、根底で向いている方向がマタイとルカとは正反対である。
マルコのロギアは、自分たちに敢えて反対するのでないかぎりは、みんな仲間であるという許容主義の思想である。
イエスの反論は続く。
マルコには、28「アメーン、あなたに言う」というイエスの言葉が冒頭に付与されている。
マタイでは、31「この故にあなた方に言う」であり、「アメーン」というアラム語由来の言葉は省かれている。
続いてマルコのイエスは28「人の子らには一切が赦される。罪であろうと、どんな冒涜であろうと」(panta aphethEsetai tois hyuois tOn anthrOpOn ta hmartEmata kai hai blasphEmiai)と宣言する。
マタイでは、31「人間に対してはいかなる罪も冒涜も赦されるだろう」と宣言した後、続く32「人の子に反対して言葉を言う者は赦されるであろう」と言い換えている。
最初の「人間」(tois anthrOpois)が複数形であるのに対し、次の「人の子」(tou hyiou tou anthrOpou)の方は単数形である。
マルコの28「人の子らには一切が赦される。罪であろうと、どんな冒涜であろうと」(panta aphethEsetai tois hyuois tOn anthrOpOn ta hmartEmata kai hai blasphEmiai)という文を、マタイは並行で、31「人間に対してはいかなる罪も冒涜も赦される」(pasa hamarutia kai blasphEmis aphethEsetai toi anthrOpois)と書き直している。
マタイは、マルコの「人の子ら」(tois hyiois tOn anthrOpOn)という複数形の表現を「人間」(tois anthrOpois)という複数形の表現に書き直したのである。
つまり、マタイはマルコの「人の子ら」(tois hyiois tOn anthrOpOn)という複数形の表現を、「人間一般」という意味に解したのである。
その上で、「イエス」を「人の子」(tou hyiou tou anthrOpou)という特別な称号を持つ人物として、単数形にして、再定義したのである。
つまり、マルコの「人の子ら」(tois hyiois tOn anthrOpOn)という複数形の表現は、「人の子」(tou hyiou tou anthrOpou)という特別な称号で呼ばれる「イエス」を含む、特別な集団という意味ではない。
マルコのイエスは、「人の子ら」(tois hyiois tOn anthrOpOn)という複数形の表現を、「人間一般」という意味で発言しているにすぎないのである。
マタイもそう解している。
律法主義によって「罪」を定め、人を縛り、清めの儀式と犠牲を要求するのは、ユダヤ教の特色の一つである。
このマルコのイエスによる「人の子らには罪であろうと冒涜であろうと一切が赦される」という宣言は、人間は誰であっても、根拠のない「罪」や「冒涜」という批判の奴隷となってはならない、という宣言でもある。
キリスト教は、「罪」や「冒涜」を定めるユダヤ教の呪縛から解放された宗教であり、信者に聖霊を付与できる権威を持つと主張する宗教である。
それゆえ、「イエス」を「人の子」(tou hyiou tou anthrOpou)として認める特別な「人の子ら」集団には、ユダヤ教における一切の「罪」や「冒涜」も赦されている、という意味ではない。
「罪」とともに「冒涜」が加えられていることからすると、エルサレムの原始キリスト教団は、彼らと行動を共にしなかった他のキリスト教団に対しても、独善的に「罪」とされる規則や習慣を定めたり、教団の決定に批判的なキリスト信者を「冒涜」とみなし、排他的に扱っていたのではないかと思われる。(使徒6-7章ユダヤ人キリスト信者とヘレニストキリスト信者との対立参照)
そのことは29「聖霊に対して冒涜する者は永遠に許されることなく、永遠の罪に定められる」という言葉に示されている。
当時のキリスト信者には、自分たちが「聖霊」を注がれた特別な存在という認識があったと思われる。
エルサレムの原始キリスト教団は、信者に「聖霊」を注ぐ独占権を神から委ねられていると自負していたのだろう。(使徒5:29-32参照)
イエスが生きていた当時は、イエスの生き方や思想にまったくの理解を示さなかったのに、イエスの死後にはイエスに対する人々の敬意を利用して、イエスを神格化し、その権威の代弁者となろうとしたのが、十二弟子と呼ばれる存在であり、イエスの家族だったのであろう。
イエスは「罪や冒涜の一切は赦される」と宣言したのであるから、他のキリスト信者に対して、「冒涜」とされる事柄を規定したり、「罪」に定める権威を持とうとしていたのは、イエスであろうはずがない。
そのような権威を持ちたかったのは、おそらくペテロたちを中心とする十二弟子たちやイエスの親族を核として発足した原始エルサレム教団であろう。
つまり、この言葉は、イエスが実際に語ったものではなく、原始キリスト教団が他の流れのキリスト教団信者に対する脅しのために、イエスの言葉として伝承化させたものであると考えられる。
「罪」や「冒涜」を定め、世界のキリスト教を権威主義的に支配しようとする排他的な態度は、ユダヤ教支配体制がイエスを「冒涜」と定め「罪人」として処刑したのと同質ではないかとマルコは批判しているのだろう。
ルカの「ベエルゼブル論争」には、このロギアの記述はなく、「パリサイ派のパン種」の結びに12:10「また人の子に向かって言葉を言う者はみな赦される。しかし聖霊に向かって冒涜する者は赦されない。」(pas hos erei logon eis tonhyion tou anthrOpou aphethEsetai auto tO de eis to hagion pneuma blasphEmEsanti ouk aphethEsetai)という表現で登場する。
マルコの「人の子ら」(tois hyiois tOn anthrOpOn)という複数形ではなく、ルカの「人の子」(tou hyiou tou anthrOpou)は単数形であり、マタイと同じく、「人の子」(tou hyiou tou anthrOpou)という称号をイエスに適用している。
マルコは、3:13以降、まず「十二人の集団」(13-19)に言及し、続いて「イエスの家族」(20-21)、さらに「律法学者」(22-30)、最後に「群衆」(31-35)という順番に並べている。
この四つの集団は、マルコの描くイエスのまわりに登場する主な集団である。
この構成と各集団に対するマルコのイエスの評価が、そのままマルコの評価となっている。
しかし、マタイとルカはマルコの評価を全く別のものに変えてしまっている。
まず、共観福音書間の相違を整理しておく。
マルコ3:20-21の「イエスの家族」の話は、マタイとルカにはない。
マルコは、イエスの母や兄弟がイエスを気が変になった人間、悪霊に憑かれた状態にあるので、つかまえに来たと評価している。
そこには、マルコのイエスとイエスの家族の間には対立関係が存在する。
31「外に立って、人をやってイエスを呼ばせた」ことからすると、彼らはイエスに対して非常に威圧的であり、高位の存在として振舞っている。
しかし、マタイ12:46は、イエスの母と兄弟がイエスのもとに来たのは、「話をしようとして」である、としている。
マタイのイエスとイエスの家族たちの関係は、融和的である。
イエスの親族たちがキリスト教の教祖に対して否定的な感情を持っていたということを認めたくないのであろう。
マルコのイエスに対して高圧的な家族の姿とは違い、イエスの家族は「話をしようとして、外に立って」イエスを待っている姿に描いている。
マタイの描くイエスの親族は、イエスに対して恭順的である。
ルカ8:19-20にいたっては、単に合うために面会を申し出た、ことになっている。
しかも「群衆によって阻まれた」事とした。
「群衆」はイエスに近づこうとするイエスの家族を妨害する存在として、敵対的に描かれている。
マタイと同じように、イエスの家族がイエスに対して抱いている否定的な感情を消したかったのであろう。
しかし、マルコとは逆に、イエスを「正気ではない」と捕まえに来たイエスの家族ではなく、群衆の方を悪役に仕立てているのである。
後半の「イエスの家族」でも同様の相違がある。
マルコでは、34「これぞ我が母、我が兄弟」と真の信者としている対象は、32「自分の周りを囲んでいる者たち」=「群衆」に対してである。
マルコは、「群衆」を「自分のまわりを囲んでいる」「神の意志を行なう者」と評価しているのである。
しかし、マタイでは、イエスが49「自分の手を弟子たちの上にのばして」言ったとある。
「弟子たち」が「神の意志を行なう者」とイエスに評価されている。
しかし、マルコのこの話の中には、「弟子」という表現は、一度も出て来ない。
マタイは、マルコのイエスが評価した「群衆」を、「弟子たち」=「十二使徒」に置き換えたのである。
マルコでは3:13-19で十二人の名前が列挙されているにもかかわらず、続く話の中では、イエスと共に行動している十二弟子の姿は無視されているかのように、登場しない。
マルコにおけるイエスのまわりにいるのは、いつでも「群衆」であり、むしろ弟子たちは、イエスに対して無理解な存在として描かれている。
マルコのイエスでは「神の意志を行なう者」であったはずの「群衆」が、マタイでは、「弟子たち」=「十二使徒たち」が「父の意志を行なう者」であることにすり変えられてしまったのである。
ルカにおいて、マルコにおける「イエスの家族」に関する後半の話(3:31-34)は、「ベエルゼブル論争」とは別に、8:19-21に置かれている。
ルカは、マルコ33「私の母、私の兄弟とは誰のことか?」という自分の家族に対する拒絶的な発言を省き、さらに「イエスが自分の周りに座っている群衆を指して言った」という文も削った。
ルカはイエスの家族との会話で、21「彼は答えて、彼らに対して言った、「神の言葉を聞いて行なう者こそが私の母、私の兄弟である。」(adephoi mou houtoi eisin hoi ton logon tou theou akouontes kai poiountes auton)という発言だけを残している。
しかも、マルコ35「神の意志を行なう者」(to thelEma tou theou)という表現を、21「神の言葉を聞いて行なう」(hoi ton logon tou theou akouontes kai poiountes auton))に変えている。
ルカにおけるイエスが答えた21「彼ら」(aotous)とは、イエスの20「お母上と御兄弟」(hE mEtEr sou kai hoi sderlphoi sou)を指している。
「母」と「兄弟」のどちらにも「あなたの」(sou)という所有代名詞をわざわざ付加しており、イエスを特別視した表現となっている。
「あなた様の母上と御兄弟」というニュアンスになる。
その結果、自分の母親でも兄弟でも関係なく、誰でも、「神の言葉を聞いて行なう者こそが、私の母、私の兄弟である」という抽象的な一般論としての格言となり、マルコのイエスの家族に対する批判的な精神が消えてしまっている。
イエスの親族に対する三者三様のこの違いは、どこから生じるのだろうか。
単に福音書著者の個性の違いというだけでなく、時代背景の違いからも生じているように思われる。
マルコの当時は、イエスの兄弟であるヤコブがエルサレムの原始キリスト教団の指導者であったと思われる。(エピファニウス[4C]によると初代教会長ヤコブは38-62までとされる)
それゆえ、マルコにおけるイエスの兄弟に対する批判は、当然、エルサレム教会にも向けられているのだろう。
マルコが執筆したのはどんなに早く見積もっても50年代である。
それに対して、使徒の一人であるゼベダイの子ヤコブが殉教を遂げたとされるのは40年代前半であり、彼の死後、十二弟子が囚われたとする記録は存在しない。
最初の新約文書を書いたパウロが、「十二人」に言及しているのはコリント第一15:5であるが、そこでもイエスが「十二人」に現われたと伝説的に語られているだけである。
ルカは使徒15章で、アンティオキアを拠点とするパウロから割礼問題が提出され、ヤコブが司会するエルサレムで協議された際、ペテロの証言を取り上げているが、キリスト教黎明期の活動を理念的理想像に押し込めて、記述しようとしている。
もしかしたらパウロの時代にはすでに十二使徒は存在しておらず、原始エルサレム教団の理念的存在として伝説化されていただけで、現実的な影響力はなかったのかもしれない。
パウロが軟禁されるきっかけを作ったのも、原始エルサレム教団の指導者であったイエスの兄弟のヤコブである。
一方、マタイやルカの時代になると、キリスト教の信仰告白や教条主義が確立されつつあり、エルサレム教会の権威も確立されつつあったものと思われる。
ペテロをはじめとする十二使徒たちはいつもイエスとともにいて、イエスと行動を共にしていたという「十二人衆」という理念は、ユダヤ教クムラン教団の理念ともエッセネ派の教団運営とも一致する。
おそらく、初期エルサレム教団が継承したのであろうが、ルカの時代になってキリスト教組織の歴史を記録するにあたり、「十二使徒」信仰思想が再構築されたであろう。
そう考えると、マルコとルカの「十二使徒」の表が異なることの説明ができるかもしれない。
「十二使徒」の権威が集団指導体制として、実質的支配運営を構築できていたのであれば、名簿の名前が異なるという事態は生じないはずである。
別々の伝承が存在するということ自体が、異なる流れのキリスト教が存在しており、少なくても「十二使徒」集団という存在が、ルカの時代には観念的なもの、あるいは形骸化されていたのかもしれない。
いずれにしても、マルコの「十二使徒」や初期エルサレム教団の指導者であった「イエスの親族」対する評価は低い。
「神の意志を実行している」存在とはみなしていない。
一方、マタイやルカは、「十二使徒」や「イエスの親族」に対する評価が高く、「神の言葉を聞いて行なう者」という評価をしている。
エルサレム教会の指導者はイエスの親族たちが継承していったことがエウセビオスの「教会史」(4:5)には記録されている。
ペテロがエルサレムを逃亡した(使徒12:17参照)後、AD38初代原始教団の指導者となったのが主の兄弟と呼ばれたヤコブ、ヤコブがAD62石打ちで処刑され、第二代目の指導者となったのも主の兄弟であるシメオン。
第一次ユダヤ戦争(66-70)が勃発する直前にヨルダン川東側にあるペラの山中に逃げる。(「教会史」5:3)
エルサレム神殿崩壊後、原始教団は再びイエスの従兄弟であるシモンが指導者となり、エルサレムに戻る。
その後第二次ユダヤ戦争(132-135)まで、エピファニウスとは異なる名前も登場するが、十五代のエルサレム司教の名前が列挙されている。(「教会史」4:5)
第二次ユダヤ戦争後、ローマ帝国は、ユダヤ人のエルサレム強制退去を実施し、原始エルサレム教会は事実上消滅した。
マタイやルカの時代には、イエスのキリスト信仰が確立されており、それに伴い、イエスの親族に対する神格化も進んでいったのであろう。
おそらく教団の指導者であったイエスの親族に否定的な見解を付与することは考えられなかったのであろう。
それで、マタイとルカは、マルコの否定的な見解を無難なものに書き換えて編集することにしたものと思われる。
マタイとルカには、「イエスの家族」の話の代わりに、「聾者の癒し」が「ベエルゼブル論争」の導入話として載っている。
ただし、マタイは、「盲人の聾者」とあるが、ルカはただの「聾者」であり、盲人であるとはされていない。
これは、マルコ資料ではなく、マルコ資料とは別のQ資料に基づく伝承である。
おそらく源伝承ではただの「聾者」であったものを、マタイがイエスの奇跡効果をより高めようとして、「盲人の聾者」にグレードアップさせたものだろう。
マタイでは群衆が23「まさかこの者がダヴィデの子なのではなかろうか」と発言したことになっているが、ルカにはその種の発言の記述はない。
ただ14「群衆は驚いた」とあるだけ。
これもイエスを「ダヴィデの子」として王の系譜に結び付けたいマタイによる付加であろう。
ルカの伝承の方が、Q資料の源伝承であると思われる。
マタイ9:32-34でも、「聾者の癒し」伝承が載せられており、こちらの方がルカの「聾者の癒し」と言葉遣いと共通する箇所が多い。
マタイとルカが共に、「聾者の癒し」を導入として「ベエルゼブル論争」を続けて、セットで語られていることからすると、二人が参照にしたQ資料にも、もともとセットで語られていたものと思われる。
マルコでは、22「イエスが悪霊を追い出して治療できるのは悪霊どもの支配者だからである」と批判したのは、22「エルサレムから下って来た律法学者」である。
マタイでは、24「パリサイ派」となっている。
しかし、ルカでは、「パリサイ派」や「律法学者」ではなく、15「群衆のうちの何人か」が批判したことになっている。
ルカの「群衆」嫌いが、イエスの「批判者」に仕立てたのだろう。
マルコでは、イエスが「律法学者どもを呼び寄せ、譬を用いて」反論している。
マタイとルカでは、「彼らの思いを知って」、反論したとされている。
マタイ・ルカのキリスト信仰がイエスに超能力を発揮させたのだろう。
マルコより、イエスの神格化が進んでいることを示している。
マルコの35「神の意志を行なう者こそが…」(hos gar anpoiEsE to thelEma tou theou )を、マタイはマルコとは別の個所に置き、12:50「天にいます我が父の意志を行なう者こそが…」(hostis gar an poise to thelEma tou patros mou tou en ouranois)と神を賛美する定型のドクソロギアを付加した表現に変えている。
ルカもマルコとは別の個所に置き、8:21「神の言葉を聞いて行なう者こそが…」(hoi ton logon tou theou akouontes kai poiountes auton)と変えている。
趣旨はみな同じである。
マタイとルカがマルコの表現を変えたのはそれぞれ属していた教会の言い方だったのだろうか。
マルコ3:35には「姉妹」が付加されているが、3:31-34には「姉妹」は含まれていない。
「誰が本物のイエスの肉親か」という問いに対して、「神の意志を行なう者」として、最初にあげられているのは「兄弟」である。
マルコとしては、当時のエルサレム教会の指導者がイエスの兄弟であったという意識が働き、「母」ではなく「兄弟」を先にしたのであろう。
また「父」の意志を行うかどうかの問題であるから、信者が対象である。「母」は「父」に付随的に当然のものと考え最後に回し、「兄弟」「姉妹」「母」の順番にしたのであろう。
マタイもイエスの回答に「母」「兄弟」に加えて「姉妹」を足している。
おそらく、マルコと同様の意図をもって写したのであろう。
マルコの場合は、自分の周りにいる群衆に対する回答である。
肉親関係の問題ではなく、「神の意志を行なう」かどうかという問題である。
マタイの場合も、弟子たちに対する回答となっているので、当然女性信者も対象となる。
それで、「兄弟」だけでなく、「姉妹」も加えたのだろう。
ルカ8:21は「神の言葉を聞いて行なう者こそが…」とし、マルコ、マタイにあるイエスの回答から、「姉妹」を削っている。
ルカの場合、「母と兄弟」に対するイエスの返答という形式であるから、「私の母」「私の兄弟」だけで「私の姉妹」という返答は必要ないと考えたのであろう。
この伝承における相違を分析すると、マタイとルカは、マルコとQ資料をもとに、福音書を再編集しているのが理解できる。
マタイは、マルコとQ資料を組み合わせて再編集し、福音書を創り上げているが、ルカは双方に同じような資料があった場合、どちらか一方を採用して、編集している。
この個所におけるルカの資料は、Q資料に由来している。
マタイとルカは、マルコの弟子やイエスの家族に対する批判的精神を、骨抜きにし、キリスト教会の権威を強めようとしていることが読みとれる。
マタイの弟子=「使徒」権威信仰に加えて、ルカには「群衆」蔑視信仰が随所に見え隠れする。
マタイやルカを前提に福音書を読むとマルコの記述に違和感を覚えることになる。
しかし、マルコを前提にマタイやルカを読むと彼らの意図が読めて来るのである。
マタイやルカがマルコより先に書かれたと解説する註解書や組織の教えには、注意が必要だと思う。
マタイやルカに重きを置くことにより、無意識のうちに聖人信仰や組織信仰を教化させてしまうように思う。
聖書霊感説信仰にとらわれるなら、聖書の真実の姿はみえてこないかもしれない。
しかし、聖書から何を学び、何を自分の人生に取り入れるかは、各自が好きな聖書の言葉を参考にすればよいのではないだろうか。
文字通りの「神の言葉」ではないのであれば、聖書に書かれているすべての言葉に縛られる必要はないのではなかろうか。
「神の言葉とは思えない」「神の意志を行なう」事にはならない、と感じる箇所は、自由に自分の「聖書」の中から削除してもよいし、感銘を受けた聖書にはない「言葉」は自由に自分の「聖書」に書き加えても、何ら問題はないのではないかと思う。
もちろん、その時点で自分の「聖書」は、聖書信仰が意味する「聖書」ではなくなるのであるが……。
しかし、マタイやルカがマルコを削ったり、付加したりして、福音書を再編集し、それが聖書とされているのだから、自分の「聖書」を再編集しても、何の問題があるのだろうか?
クリスチャンであるというのであれば、単にイエスをキリストと信仰するだけではなく、生前のイエスからも、「これぞ我が母、我が兄弟」と呼ばれる存在となることが重要であるように思う。