最近訳あって仕事探し(というか転職)をしている。

 

 

その訳というのは、まあ今の仕事は満足してるんだけど、このままでは家族の将来が厳しそうなので、もう少し安定した仕事をしたほうがいいだろうということ。

 

 

前回優先順位の話しをしたけど、今回優先したのは自分ではなく家族。と言っても家族のせいにしているのではなく、自分が家族を優先しようと選んだわけで、別に言い訳をしているのではない。

 

 

さて、家族とはなんだろう。

 

 

家族の定義を問うているのではなく、自分が生きていく中で家族という存在は何なのだろう。

 

 

家族は自分を必要としているのか。たぶんそうだろうな。でもいなくなっても困るのは経済的な面が大きくて、精神的なところは嫌でも乗り越えるはず。ということは存在しなくても生きていけるわけだ。

 

 

なら「家族を優先」とはどういう意味だ? 別に自分の存在を必要としていないのなら、優先する必要もないはずだ。

 

 

どうもそうではないのだろう。自分が生きる意味がよくわかっていないから、代わりに家族に生きる意味を見出そうとしているのかもしれない。無意識のうちに。

 

 

これはどういうことだろう。自分のためではなく他者のために生きるということか。そこに生きる意味があるのか?

 

 

でもその他者は自分を必要としていない。いや、この言い方は間違っている。

 

 

他者は自分が存在していれば、それは必要と考えるが、存在しなくても問題はない。「有=必要」であり「無=不必要」ということか。

 

 

つまり自分が存在している限り、他者は自分を必要とする。ならば「存在している=生きている」間は他者のために生きるというのは間違ってはいないのか。

 

 

ではもし自分が存在していても必要とする他者がいなくなったらどうすればいい。その時は生きる意味はなくなるのか。「無」になるべきなのか。

 

 

「他者のために生きる」とは何かを考えれば「生きるとは何か」が少し見えてくるかもしれない。

 

 

ただしこれは「他者から見た自分の存在」という側面から生きるとは何かをについて論じているのであって、「自分から見た他者の存在」という側面が欠けていることは忘れてはならない。そしてこれも相対的な存在で考えているのであって、自分という絶対的な存在について考えるのはやっぱり難しい。