———アンドレ……!———
使用人部屋の暖炉の前に簡素な寝床をこしらえ横になろうとした時、彼はふと、彼女が自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。
「……?」
まさかと耳を澄ましたが、雨が窓を打つ音以外何も聞こえない。
自嘲のため息をもらし、クラバットを解いた。
彼女と距離をおくために無理やり理由をつけてこんなところまで来たというのに、あいかわらず空耳でまで彼女の声を聴こうとしている。
目を閉じれば彼女の黄金の髪が頬をくすぐる感触が、塞いだくちびるのやわらかさが、首すじにひそむ甘い香りがよみがえる。
彼女の心は自分のうえにはない。
今彼女の胸に棲むのはあの北欧の貴公子、男の彼から見ても申し分ない人柄と出自のあの男だ。
自分の出る幕などもとよりありはしない。彼女への想いを自覚したときから、それは充分にわきまえているつもりだった。ゆえに決して彼女に告げることなどしない……そう思っていた。あの時までは。
あの時、なにかが自分の中で弾け飛んだ。
おそらくフェルゼンとの間で何か決定的なことがあったのだろう。
薄暗い部屋の中で肩を落としてうつむき普段はしない昔話などして、淋しげに眉を寄せる彼女。
そんな顔をしないでくれ。おまえには光こそが似合う。他の男のために、そんなに苦しまないでくれ。
おれならば決して、おまえにそんな顔をさせはしない。どうか、おれを見てくれ……!
そうしておれは結局、おまえをよりいっそう苦しめ、傷つけた。
己が劣情に屈しておまえの女性としての誇りを汚そうとした。
そんなおれの身を、おまえは案じてくれた。
部屋を出しなに眩しさに戸惑ったおれを気遣ってくれた。
これ以上そばにいたら、きっとおれはまたいつか自制を失ってしまう。
こんなおれに、おまえのそばにいつづける資格はないのではないか。
そこまで考えたとき、裏口で何か物音がした。続いて小さく馬のいななきが聞こえた。裏の馬房に繋いでおいた馬が、離れたのだろうか?
訝しんで裏口の戸を開け、彼はそこに信じられないものを見た。
全身雨にぐっしょりと濡れそぼった彼女が、戸口につかまり立っていた。
蒼白な顔のなかで大きく見開かれた目だけが、追い詰められたような色を浮かべて炯々と光っている。
「……オスカル!」
「……アンドレ!」
ふたりは同時に叫んだ。動いたのはアンドレが先だった。ふいにオスカルの足元が崩れ、その場に倒れ込みそうになったのを彼の手が支えた。
「いったいどうしたんだ、こんな時間に、独りで……びしょ濡れじゃないか!」
「ああ……アンドレ……無事なのか?よかった……」
「無事って、無事に決まってるじゃないか。いったい……」
そう言いながらも彼は手早くオスカルのマントを脱がし、暖炉の前に連れていった。からだに触れようとしたがすぐにその手を引き、手近にあった乾いた布と自分の着替えのシャツを放って渡す。
「なにか温かいものを用意してくるから、すぐにからだを拭いてそれに着替えるんだ、いいな」
そう言い渡すと踵を返して厨房へ行き、ありあわせの葡萄酒を火にかけシナモンと蜂蜜をたっぷりと混ぜてヴァンショーを作った。
蜂蜜を混ぜて溶かしながらも、さっきの彼女の様子が頭のなかを駆け巡る。
無事なのか、と言った。いったいなにを心配していたのだろう?あんな彼女の顔は、見たことがない……。
出来上がったヴァンショーを手に使用人部屋の前へ戻ると、息を整えてドアを叩く。小さな声で応えがあり、彼はドアを開けた。オスカルは彼のシャツをまとい、心細げに膝を抱えて暖炉の前に座り込んでいた。
アンドレはヴァンショーを手渡すと用心しながらオスカルを毛布で包み込み、彼女のマントを火にかざした。
気まずさをともなう沈黙が、その場を支配する。
「……から……」
ヴァンショーを少しずつ口にしていたオスカルが、ふいに呟いた。
「え?」
「急に、なにも告げずにいなくなってしまったから……なんだかとても嫌な予感がしたんだ。それで、いてもたってもいられなくなって……」
「……そうか。すまなかった……。独りになって、考える時間が欲しかったんだ」
暖炉の火のはぜる音が小さく響く。
「わたしときたら、いつもいつも独りよがりで……おまえが許してくれるのをいいことに、ずっと甘え続けてきた」
「……」
「おまえも知っているとおり、わたしは自分勝手でわがままな人間だ。だからというわけではないが……これからひどいことを言うぞ。聞いてくれるか」
「……聞こう」
オスカルはヴァンショーをひと息に飲み干すと、ふうと息をついて言った。
「おまえに、そばにいてほしい」
真っ直ぐにアンドレの目を見据えて、続けた。
「ここへ来る途中、わたしはずっとおまえを失うかもしれない恐怖に追い立てられていた。わたしのせいでおまえに何かあったら、わたしとて生きてはいない。その覚悟でここまで来た。そしてここでおまえの無事な姿を見て、はっきりとわかった。おまえがいないと、わたしは生きていけない」
彼は微動だにせず彼女の言葉に耳を傾けている。
「だがそれは……おまえと同じ類いの想いではない、と思う。これから先、おまえの気持ちに応えられることがあるかどうかさえもわからない。それでも、わたしは……おまえにそばにいてほしい」
はっきりとそう告げると、彼女は目を伏せた。
ややあって、彼の声が静かに響いた。
「望むところだ、オスカル」
いっしょにいるべきか、いないべきか、ではない。
ただ共にいたいのだ。
それがどんなにおたがい、痛みを伴おうとも。
彼女は彼の想いを受けとめる。彼女を愛する、という彼の想いを、拒絶することなく、ただ受けとめる。
彼もまた、彼女の想いを受けとめる。彼にそばにいてほしい、という彼女の想いを、どこまでも受けとめる。
たがいにそう心が落ち着くと、黙って炎を見つめていても安らかな思いで満たされた。
「……もう遅い。眠ろう、オスカル」
「うん」
オスカルが毛布を開き、アンドレを迎えいれた。
ひとつの毛布にくるまって、どちらからともなく手を握りあい、深く眠った。
なにも知らない子どもの頃のような、無邪気な眠りだった。
翌朝早くにアンドレは目を覚まし、彼女の服が乾いているのを確かめて、オスカルを揺すり起こした。
「オスカル、オスカル。ほら、起きて。着替えて、おれより一足早く帰るんだ」
「ん……」
まだ眠そうにしている彼女を無理やり起こし、頭をくしゃくしゃと掻き回してやる。
「今から出れば、日が昇りきる頃には屋敷に着くだろう。誰かに見咎められたら、夜中に気まぐれを起こして遠乗りに出た、とでも言って押し通せ」
「おまえは?」
「おれは火の始末をしてからゆっくり帰る。一緒に朝帰りなんぞしてみろ、それこそおれが旦那さまに殺される」
おどけて肩をすくめてみせる彼を見て、オスカルはぷっと吹き出した。
外はすっかり晴れて、夜明け前の薄明かりがあたりに漂っていた。
オスカルが馬に乗るのを助けながら、彼はチーズを挟んだパンと水筒を手渡した。
「どうせ昨夜ろくに食べてないんだろう。途中で腹が減ったらこれを食べるといい。雨でぬかるんでるから、馬が足をとられないよう気をつけて」
「ありがとう」
相変わらずの彼の世話焼きを嬉しく聞いていると、ふいに声をあらためて彼が言った。
「オスカル」
「ん?」
「愛している」
ふたりの視線が絡み合い、一瞬熱をもってはじけた。
「……うん」
彼女がうなづいて微笑むと、彼も静かに微笑んだ。
そうして彼女は馬首をめぐらし、太陽の方角に向かって走りだした。
その後ろ姿を、彼はただ立ちつくして見送っていた。
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いつも穏やかで優しく気のいい幼馴染が突然男の顔になって愛を告げ、くちびるを奪い寝台に押し倒す。
前回、『ふつうだったらおたがい気まずくてもう一緒にはいられないくらいの事件』と書きました。
しかし考えてみれば、このふたりは『ふつう』ではないのです。
女性でありながら男として育てられ、男社会の軍隊で生きているオスカルさま。女だからという理由だけで侮られることもあっただろうし(ブイエ将軍みたいな人はゴロゴロいたと思います)近衛にいた頃は王妃のお気に入りということで嫉妬されたりと茨の道だったことでしょう。そういうなかで、幼い頃からずっとそばにいていつだって味方になってくれて最高の理解者であるアンドレ。そんなひとと離れられるはずがないのです。決して彼の愛を利用しているとかそういうことではありません。あくまでわたしの解釈ですが、オスカルさまは徹頭徹尾アンドレを愛していたと思っています。自覚がないだけ。意識の表面に上がってきていなくとも心の奥底では彼を愛していますから、この時の彼の突然の愛の告白に驚きはしても嫌悪は抱かなかった。
そして、平民でありながらオスカルさまときょうだいのように親しく育ったアンドレ。彼は自分がオスカルさまのいちばんの理解者だと自負しているし、自分たちが深い絆で結ばれていることをちゃんとわかっていたと思います。だからこそ、別の男に心奪われているオスカルさまを見ているのが苦しくて、焦燥に駆られて想いをぶつけてしまった。彼女を傷つけてしまったのではないか、と後悔にまみれながらも、やはり自分の命にも等しいひとから離れて生きることなどできるはずがないのです。
そういうふたりのエピソードの隙間を埋めてみたい、と思い考えたお話です。
ただ『愛してる』という言葉だけでなく、押し倒してブラウスを裂く、という性の行為をともなう愛の告白は、オスカルさまの固く閉じこめられていた女性性を開かせる大きなきっかけになったと思います。ここからオスカルさまは女性としてどんどん美しく華開いていく。そしてアンドレも、彼女への愛によりいっそう苦悩しながら男としてどんどんセクシーに、魅力的になっていく。
ここらあたりからのふたりの愛の展開は、とても子ども向けの漫画とは思えない奥深さですね。
だからこそ半世紀経った今でも、飽きることなく繰り返し読み自分なりの解釈を深めていけるのだと思います。
