先週末2026年5月9日・10日の土日に、名古屋市中川区の近鉄伏屋駅・地下鉄東山線 高畑駅・岩塚駅周辺にて、歴史散策して来ました!
仕事で出かける用事があったので、その帰り道に、ふらっと街歩き。まだ出かけたことのない場所を、巡って来ました。
5月9日は、四日市まで仕事で行ったので、その帰り道、近鉄名古屋線 伏屋駅で下車して、歴史散策!
駅の南東側の路地に入って、「土之宮神明社」をお参り。
境内には、「福留将監古城跡」と刻まれた石碑がありますが、この地は、織田信長の家臣 福留将監の居城「助光城」があったと言われているそうです。
「土之宮神明社」に隣接して、「稱圓寺(称円寺)」があって…
立派な楼門と御堂が目を引きます。
「稱圓寺」の東には、「前田速念寺」。
こちらは「前田城跡」であり、前田利家ゆかりの地とも言われています。
「前田速念寺」の境内には、前田与十郎の墓や前田家の歴代の墳墓があるんですよね。
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前田速念寺(まえだそくねんじ)は、愛知県名古屋市中川区前田西町にある浄土真宗の寺院。
概要
山号は岡部山。山号は織田家の家臣であった岡部忠昌が深く速念寺に帰依し、三つ巴の家紋・器具等を寄進したことに由来する。
由緒
尾張国海東郡前田村にあった前田城の旧跡に創建された。前田村は前田利家をはじめとする前田氏発祥の地である(異説もある。前田氏参照)。もとは天台宗であったが、意休法師(前田利則、利家の叔父)のときに浄土真宗に改宗した。本尊は前田利家寄進にかかる阿弥陀如来尊像であり、その蓮台には「本尊聖徳太子御作」「前田又左衛門尉利家」の銘がある。
速念寺の寺伝では、前田利家は前田城で生まれ、のちに荒子城(現・名古屋市中川区荒子)に移ったとしている。(後略)(ウィキペディア「前田速念寺」)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/前田速念寺
で、前田輿十郎とは…?
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前田 長定(まえだ ながさだ、? - 天正12年7月3日(1584年8月8日))は、戦国時代の武将。前田城主、下之一色城主。前田対馬守家第2代当主。父は前田種利。通称、与十郎、種定。兄弟に前田長俊、佐久間信盛室、森可成室、玉竜寺四世。子に前田長種。
生涯
長定の前田家は尾張国海東郡の土豪であり、代々の当主は与十郎を称した。与十郎家は、前田城、下之一色城を有し、前田利家の本家筋にあたるといわれる。天文13年(1544年)には、荒子城も有しており、林秀貞、林通具の与力として織田家に仕えた。
弘治2年(1556年)、稲生の戦いにおいて林通具が討死すると、織田信長により荒子城一帯の領地は没収され前田利春に与えられた。
前田長定は織田家重臣・佐久間信盛に仕え、本能寺の変ののちは、信盛の子・佐久間信栄のもと織田信雄に仕えた。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、滝川一益の誘いにより羽柴秀吉陣営に寝返り、同年6月16日、蟹江城から佐久間信辰を追放、滝川の兵と共に蟹江城に籠城した。しかし織田信雄・徳川家康の連合軍に攻められ開城した(蟹江城合戦)。翌7月3日、妻子と共に船で城から退去したところ、徳川家康の命により妻子共々殺害された。
本拠の下之一色城にいた長種は降伏し、加賀の前田家を頼り落ち延びた。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/前田長定
新前田橋を渡り、庄内川を越えて少し歩くと、左手に「龍潭寺」があります。
読み方は「りゅうたんじ」。井伊家本貫の「龍潭寺」は「りょうたんじ」と読みますが、異なるんですね…
康正元年(1455)錦渓和尚の創建。
「龍潭寺」から、更に東の方、地下鉄東山線 高畑駅方面に進むと、「宝珠院」があって…
翌5月10日は、地下鉄東山線 岩塚駅の近くに仕事で出かけたので、その帰り道に、近くを散策。
岩塚駅の西、庄内川の手前に、「七所社」があります。
当神社に保存されている神鏡に、元慶8年(884)の銘があり、その頃の創建と考えられ、また応永32年(1425)岩塚城主 吉田守重の銘がある棟札も残されているそうです。
尾張三大奇祭の一つ「きねこさ祭」も行われています。
https://www.kinekosa.com/maturi.html
「七所社」の境内には、古墳が3基あって「岩塚古墳群」と呼ばれています。
写真は、岩塚2号墳。由緒書きを刻んだ石碑には、奈良時代初期の古墳と伝えられ、埋葬者は不明。名古屋市中村区で現存する古墳はここだけで、岩塚の地名の由来になっているとあります。
岩塚古墳のうち、岩塚1号墳は周りに池が掘られ弁財天がお祀りされていて、岩塚3号墳は日露戦争の戦勝記念碑を建立する為に破壊されたとか…汗
境内には、ヤマトタケルノミコトが腰かけた岩「日本武尊腰掛岩」もあります。
「七所社」から、すぐ傍、庄内川に架かる万場大橋を対岸に渡ると、秋葉神社の鳥居や御社があって、その傍らに「佐屋街道 万場の渡し」についての史跡案内板があります。
佐屋街道は、熱田から岩塚、万場、神守佐屋を経て桑名へ渡る陸路6里・海路3里の行程で、江戸時代の東海道の脇街道として大変賑わいました。
熱田宮から海路桑名へ渡る「七里の渡し」が一般的でしたが、風雨による欠航や船酔いを避け、陸路を望む人たちも多かったのです。
庄内川を渡るのに、渡し船があったんですね。
ここ万場には、「万場宿」が置かれ、対岸の「岩塚宿」と一体と見なされた宿場だったそうで、1ヶ月のうち上十五日は万場宿、下十五日は岩塚宿で宿場を務めるのが慣行でした。
折角なので、万場宿も少し歩いてみることに…
佐屋街道を西に、佐屋方面に進むと、「覚王院」が見えて来て…
「覚王院」のすぐ隣、隣接して「國玉神社・万場八劔社」が鎮座しています。
「国玉神社」の道路を挟んだ向かいには、「光圓寺」があって、立派な三重塔を見ることもできます♪
万場宿から佐屋街道を引き返し、万場大橋も渡って、岩塚宿に…
「岩塚城跡」と言われる「遍慶寺」に…
こちら「遍慶寺」は、以前参拝していています。
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12574377133.html
「遍慶寺」から、佐屋街道を歩いて、地下鉄岩塚駅に向かうと、途中、「佐屋街道 岩塚一里塚跡」があるというので、立ち寄ってみると…石碑があったと思われる場所には、何もなくて…
撤去されてしまったようです…残念…😢
名古屋市中川区・中村区の史跡。
岩塚・八田方面には、以前より仕事で出かけていたので、散策したことがあったのですが、庄内川の対岸・近鉄伏屋駅周辺には出かけたことがなかったので、今回とても興味深いものがありました(^^)
名古屋市内にも、史跡がいろいろあって、散策のし甲斐があることを、改めて感じた散策になりました!
詳細は、また後日。
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