九州下町おやじの珍道中

九州下町おやじの珍道中

下町おやじが、愉快に美味しく楽しく過ごす九州。
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先週末。2026年5月30日の土曜日、かねてより訪問したかった愛知県西尾市で、歴史散策して来たんですよね!

室町将軍 足利氏ゆかりの地、忠臣蔵の吉良上野介ゆかりの地ですので、楽しみにしていました♪

 

 

この日は、西鉄西尾線 上横須賀駅で下車して、歴史散策!

散策と言っても、駅すぐ近くの「コンパルふれあいホール」1階の「カフェえん」で、レンタサイクルを借り出したので、正確にはサイクリング 笑

受付カードに記入して、無料で借りられます。電動アシスト付き自転車ではありませんが、ありがたい!(^^) 

 

ちなみに借りた自転車は、こちら。錆が目立ちますが、ブレーキの効きもいいし、不具合もなく快適に乗れましたよ!

 

 

 

 

まず向かったのは、「源徳寺」。

 

 

 

 

吉良上野介義央の父 吉良若狭守義冬が深く帰依した寺院で、境内には幕末の任侠 吉良仁吉(きらのにきち)の墓があります。仁吉の一周忌に、清水次郎長が建立したと言われています。

 

 

 

 

それから、「小牧陣屋跡」。

 

 

 

 

永禄4年(1561)徳川家康(松平元康)は自ら出陣して、東条吉良氏の東条城」を攻略、この地がその本陣の跡になります。

東条城落城の後、この地は本多豊後守広孝の所領となり、砦跡に邸宅を構え地頭役人を置き、その後、慶長年間には大河内氏の所領となり、陣屋を置いたそうです。

 

 

 

 

小牧陣屋跡」から、「富永伴五郎一族討死の地」に移動して…

 

 

 

 

先程の小牧陣屋跡から出陣した徳川軍(松平軍)を、東条城 城主 吉良義昭の重臣で室城城主富永伴五郎らが迎え撃ち、藤波畷で激突。富永勢は全滅。伴五郎はこの地で討ち死にとなりました…

この地には、村人たちがお祀りした伴五郎地蔵が残っています…

 

 

 

 

東条吉良氏の居城「東条城跡」。

小高い丘の上にあって、今は広場となっています。遺構としては、二の丸、三の丸、帯曲輪が残り、かつてのお城の名残を残しています。

 

 

 

鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護 吉良荘地頭となり、その三男 足利義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となりました。

 

 

 

 

東条城跡」から「黄金堤」に移動して…

 

 

 

 

吉良さん(吉良上野介義央)の善政の最たるものは、この「黄金堤」の築堤で、当時、増水のたびに隣藩上流平野の水がこの細い谷を抜けて南下し、今の吉良町の新田地帯は大水に悩まされていました。

 

 

 

吉良さんは、この山間の約180mを堤防でふさぎ、下流8,000石の田園を水害から救いました。

当然、隣接の西尾藩はこの工事に強く反対しましたが、吉良さんは決壊したら二度と築堤しないと誠意を尽くして約束したと言います。

 

 

 

また、この黄金堤がある場所は、「鎧ヶ淵古戦場」でもあります。

中世、この地一帯は深い淵であり、淵の西側背撫山の裾に、岡崎街道が開かれていました。

永禄3年(1560)桶狭間合戦後、今川と縁を絶って独立し、織田信長と結んだ松平元康(後の徳川家康)は、祖父清康、父広忠以来の深い姻戚の吉良氏を攻めることになりました。

 

 

 

永禄4年(1561)この街道を中心に吉良方と松平方が激突。山腹に塀をひそませた吉良方の策に陥り、深追いした松平方は淵に追い落とされて大部分が戦死しました。

危く切り抜けた松平方主将深溝城主 松平好景も、これまでと自刃し、吉良方の大勝。

この合戦で、淵の底に沈んだ将兵の鎧や武具が、その後しばしば引き上げられたため、この淵を鎧ケ淵と呼び、この戦いを鎧ヶ淵の合戦と称するようになりました。

 

 

 

続いて、「岡山陣所跡」。

 

 

 

 

徳川家康からこの地に200石、鳥羽に300石を拝領した吉良義定は、ここに館を建て、以後、吉良義弥(よしみつ)、吉良義冬吉良義央(よしひさ)と続きました。今、この辺りは殿町と呼ばれています。

 

 

 

徳川家康に滅ぼされた東条吉良氏は、徳川家康に御家再考を許され、旗本として取り立てられ、高家筆頭(肝煎)となり、忠臣蔵へと続くんですね…

 

 

 

高家吉良氏の菩提寺「華蔵寺」にもお参り。吉良家墓所があり、こちらは、吉良上野介義央のお墓。

 

 

 

 

当寺院は、吉良上野介の曽祖父義定公が吉良家再興の際、新たに高家吉良家の菩提寺として江戸時代初期に創建されました。

吉良上野介義央公木像も宝物なんですね。テレビでは見たことがありますが…

 

 

 

 

この後、上横須賀駅まで戻り、レンタサイクルを返却し、名鉄電車で西尾駅に移動。

ここからは、徒歩で街歩き♪

 

西尾駅から西の方角に真っ直ぐ進んだところに、「西尾城跡」に整備された「西尾市歴史公園」があります。本丸丑寅櫓や二之丸丑寅櫓などが再現され、近衛邸の部材を使って建設された「旧近衛邸」もあるんですよね。

天守閣は本丸ではなく、二の丸にあったとか。

 

 

 

 

その中で、「本丸丑寅櫓」を…美しい!

 

 

 

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西尾城(にしおじょう)は、三河国幡豆郡西尾(現在の愛知県西尾市錦城町)にあった日本の城。別名は、「鶴城」、「鶴ヶ城」、「錦丘城」など。また、「西条城」が旧称とされるが、その改名時期については諸説がある。

概要

三河国守護に任じられた足利義氏が築城した西条城が始まりと伝わる。創建当時、中世期の規模については不明である。1585年(天正13年)に酒井重忠によって、東の丸と帯曲輪の拡張と堀や石塁の造成、櫓門、櫓類、天守などが増築された。1590年(天正18年)田中吉政によって、三の丸の拡張や大手黒門、新門の楼門2棟、櫓門2棟が建てられている。このとき東の丸にあった大手門は、太鼓門と改称されている。)(後略)(ウィキペディア「西尾城」)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/西尾城

 

 

 

 

西尾城の北東にある「伊文神社」。

 

 

 

 

文徳天皇の皇子八條宮が渥美郡伊川津より西尾に御転住の際、天王社(現 伊文神社)八幡社(現 御釼八幡宮)もともに西尾の地に随遷。当初は宮町(当時は伊文と称した)に祀られましたが、後醍醐天皇の元享年中(1321~1324)現在地(当時は伊文山と称した)に移り、八幡社は承久3年(1221)足利義氏西條城(西尾城)を築いた時、松山(現在の山下)より城内へ移され、その守護神として祀られました。

 

 

 

伊文神社から東の方に進み、名鉄西尾線の高架をくぐって暫く歩くと、「八ツ面山(やつおもてやま)」が見えて来ます。

 

 

 

 

八ツ面山の中腹に、雲母坑跡があるんですよね。「八ツ面山雲母坑跡」。

八ツ面山は領家変成岩で構成され、白雲母を含む巨晶花崗岩の岩脈が通っていて、雲母は地表からこの岩脈まで掘り下げて、横方向に掘り進み採掘されていました。

 

 

 

この雲母は、和銅6年(713)調(ちょう・当時の税の一種)として朝廷に献上されたとの記事があり、婦人病や頭痛の医薬として用いられ、吉良荘の名称は「雲母(きらら)」の音を取って名付けられたと言われています。

 

明治になっても採掘は続けられ、海外にも輸出されましたが。明治33年の遭難事故以降、採掘は中止され雲母坑は放置されたままでした。

昭和6年、小学生の転落事故が発生したため、地元青年団により642箇所の雲母坑が埋められました。

 

 

 

由緒書きの後ろの斜面には、フェンスされていて、入れないようになっていました…

「吉良(きら)」の名称は、ここから採掘された「雲母(きらら)」から来ているとは!知らなかった…

 

 

 

 

愛知県西尾市・吉良町の史跡。

西尾市吉良町は、足利将軍家につながる名家吉良氏の本拠地ですので、以前より気になっていて、その吉良氏も東条吉良氏、西条吉良氏と分かれていて、忠臣蔵で有名な吉良上野介ゆかりの地でもありますから、訪れてみたかったんですよね。

東条吉良氏ゆかりの地は、駅から距離があるのですが、レンタサイクルで快適に回れました♪

西条吉良氏、西尾駅では自転車の利用時間が短くて借りなかったので、たくさん歩きました笑

足利将軍家につながる今川氏や一色氏の発祥の地もありますので、回りたかったのですが、時間がなくて断念…また訪問してみますか!

 

ということで、詳細は、また後日。

 

 

 

西尾市レンタサイクル・レンタル電動自転車・電動キックボード

https://nishiokanko.com/office/cycling/

 

 

 

 

 

 

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