相方が開けた窓から、部屋に鳩サイズの野鳥乱入→相方大慌て→指輪登場→声をかけながらそっと手を出すと乗って来た→しばらく手の上で休んでる野鳥→闇夜に放つと大きな木をめがけて飛んでった。今年1番のニュースかもしれない。
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深夜、眠れずに自宅の外で喫煙してたら、ドン!という音がして、足元に何かコウモリ的な形になった物が落ちて来た。
羽根もたためず、ガラス壁にぶつかった時の衝撃を受けた瞬間の形をしてひっくり返っている。
死んでしまったかと思い、ソッと手を添えると、コロンと転がってこの形に。
尾が美しい瑠璃色です。
雀サイズだけれど、確実に雀では無い。
自力で立てるような状態になく、バランスを崩すとコロコロ転がってしまう。目を閉じたまま、ふなふなしています。手のひらにおしっこも漏らした。
当の本人は、目を開け閉め、そして主に目を閉じたまま。自分で羽をしまうことは出来るように。
自分の足で立つことができるようになりました。ここまでの間、ずっとぼくの手のひらの上。
そろそろ、正気に戻って飛び立つだろうと思っていたけれど、小鳥さん、まだ状況がよくわかっていないのか、手のひらにうずくまったままです。
藪に移そうとするも、今度は手のひらから腕にかけて、チョンチョン、チョンチョン。移動しはじめました。飛び立つ気配がありません。
仕方がないので、極寒で辛かったですが、この子の方がきつい状況にあるし、しばらくぼくは手のひらと腕を提供したまま、この子と共に過ごすことに。
こんなに間近で野鳥を見る、ましてや触れる事など今後の人生ではレアだろうとか、このまま懐いてしまったらどうしようかとか、障害が残ったらどうしたらいいんだろうとか、人間の匂いはつきすぎていないかどうかとか、色々考える事10数分ほど付き合ってたでしょうか。
次の瞬間、パタパタ!と元気に自然界へ戻って行きました。
翌日、撮った画像を元に、博物館の学芸員をしている後輩に聞いたところ、これはルリビタキというスズメ目ビタキ科の鳥であったことがわかりました。
人間の都合で森を切り開き無理やり作ったガラス張りの建物に激突して動けなくなった野鳥。
本来であれば、そういった傷ついた動物の一時保護方法を調べてから対処すべきでしたが、あわてたぼくはこんな形でしか見守れませんでした。
翌朝。
また同じ場所でコーヒーを飲んでいると、同じ個体ではないでしょうが、ルリビタキが一羽、やって来ました。
あの子ではないか?
いや、ちょっと大きいな。
なんて考えながら、遠目に眺めていました。
先日とある神社で出会った2人の菩薩像を眺めている時、下界は疲れただろう、もう十分苦しんだのだからいつでも帰って来て良い、そんな言葉をかけられた気がして、恐ろしくなりました。
しかし今は違う。
恐ろしさはなくただもう帰りたい。
気分障害という病も、性別違和も、もう十分だ。
結局誰のためにもなれず、自分のためにも生きれず、一体どこへ向かえばいいかも、問うてみるも内にも外にも答えなどないのが、人間である。
ぼくは疲れました。
人のために生きました。
自分のために生きました。
これ以上は望みません、正も負も。
ただ普通になりたかった。
それだけの人生でした。
滅びの後の再生も、再生の後の滅びも、ただ悠久の時の塵芥であり、何も期待せずただ流れるままに、たったひととき立ち寄っただけのこと。
じき帰る。
読者の方から、以前のブログデザインだと回線速度によって表示が非常に重いというご指摘をいただき、確かに光やLTEで高速表示できない方もいらっしゃると考え、ブログデザインをごくシンプルなものにしました。
自分の携帯やタブレットからは問題なく表示されるようではありましたが、ご覧の方、いかがでしょうか?
ブログタイトルも、「青空を見る」ですから、ブルーがいいかなと、ちょっと安直ですが。
実はぼくの使っているモバイルWi-Fiは非常に速度が遅く、ひどい時はLINEの送受信もできなくなってしまいます。
まあそろそろ解約のしどきかなと思っていたので、多少は早いサービスを提供しているプロバイダに乗り換える ところではあるのですが、遅い回線だからこそ気づけたウェブ関連の知識。
画像は、重いんですよね(当然です)。
というわけで、ちょっと殺風景かなとも思いましたが、これからはこれで行きたいと思います。
もし、見づらいといった事がある場合は、ご一報いただけたら非常に助かります。
どうぞよろしくお願いいたします。
自分の携帯やタブレットからは問題なく表示されるようではありましたが、ご覧の方、いかがでしょうか?
ブログタイトルも、「青空を見る」ですから、ブルーがいいかなと、ちょっと安直ですが。
実はぼくの使っているモバイルWi-Fiは非常に速度が遅く、ひどい時はLINEの送受信もできなくなってしまいます。
まあそろそろ解約のしどきかなと思っていたので、多少は早いサービスを提供しているプロバイダに乗り換える ところではあるのですが、遅い回線だからこそ気づけたウェブ関連の知識。
画像は、重いんですよね(当然です)。
というわけで、ちょっと殺風景かなとも思いましたが、これからはこれで行きたいと思います。
もし、見づらいといった事がある場合は、ご一報いただけたら非常に助かります。
どうぞよろしくお願いいたします。
「精神障害者」「怖い」というキーワードでネット検索してみると,いかに多くの人が,精神障害者は危ない,怖い,近づきたくないと,思っているだけでなくネット上で発信しているかがわかります。
ぼくが見かけた,SNS上のやりとりで,なるほどと考えさせられた例がありました。自称健常者と,双極性障害の二人のやりとりは,その後しばらくぼくの心に居据わり,強烈に興味を引きました。
ぼくなりに考察したことを,書き記しておこうと思います。
差別感情と承認要求はどこから来るのか,ぼくなりに考えた,今現在の意見です。
事の起こりは,双極性障害の仮称Sさんが,ある社会制度について怒りを表明し,「FUCK○○制」というキャプション付きで,中指を立てた写真をツイッターに掲載したところから始まります。
そのツイートに対して,自称健常者Jさんが「そういう事は書かない方がいい」と反応します。
Jさんはそこで,Sさんの投稿が不快で,常軌を逸しており,正気の沙汰ではないと立て続けにツイートし,挙句「また薬でハイになっているの?」「おかしい事(をしているということ)がわかんないんだね」「ガキじゃあるまいし」「怖い」「(その制度へ対する怒りは)今さら主張することではない」と畳み掛けます。
Sさんは,自分のツイートによってJさんを不快にさせたことを謝罪し,該当のツイート写真を削除しますが,Jさんの怒りはおさまりません。続けざまに非難と暴言を浴びせ続けます。
Sさんは,投稿が不適当なものだったと認めながら,「また薬でハイになっているの?」というJさんのアクションに,「現在のうつ病治療では,気分を覚せい剤のように高揚させるようなものは処方されていない」という趣旨の答えを返しますが,Jさんは「こっちは医者じゃないんだからそんなの知らねえし」。
Jさんからの大量の非難ツイートに対して,Sさんは一つづつリツイートしながら返信を書き始めますが,今度はそれに対してJさん「(SさんがJさんの罵詈雑言ツイートを)リツイートしてんの,残すため?怖い」
ここで初めてSさんが反論します。「コメントが差別的だね」。
この辺りでSさんはJさんをブロックしたようです。
Jさんの怒りは頂点に達したかに見えます。
Jさんのツイートは止まりません。
「(社会制度に対する)怒りの内容がどうあれ,手段が常軌を逸しているようにしか見えない,怖い,こっちの方がやられそう」
「ツイートもブロックか(笑)沈黙といいねしか言わない人々に囲まれていれば,確かに傷つかずに済むわね。精神障害者との関係はリスクも伴うけど,なぜ関わり続けるかの理由がね,難しい。だからみんな避けたがる」
「障害者だからってスルーしてきたけど限界があるよね,まともじゃないってだから障害者なんだけどさ,それを差別としか受け取れないのも障害者ゆえかしら~と思ってみたり」
「また薬でハイになっているの?とか,おかしいことがわかんないんだね,とかコメントしてたんだけど,それを後でリツイートしてんの(残すため?)怖いから発言削除しちゃった。やりすぎたのはわかってるけど,うんざりしてたのも事実。プロフに精神障害者と書く人の心理を考えてみたり」
少し長くなりましたが,ぼくはこのやりとりを眺めて,様々なことを考えました。
皆さんはどのような感想をお持ちになるでしょうか。
あまりセンスが良いとは言えない中指おっ立て写真をツイッターで投稿してしまうSさんのネットリテラシは確かに稚拙であるように受け取れます。
結果こういう絡みに巻き込まれるのも,ある程度想像してツイートしていくべきだったのかもしれません。
しかしツイッターにはもっとセンスが悪いツイートが多数,容易に見つかります。
ではなぜ,Jさんは謝るSさんにここまで牙をむいたのでしょうか。
Jさんのツイートにもあるように,JさんはSさんと知り合い?だったようです。「障害者だからとスルーしてきた」とあります。
障害があることを分かった上で付き合ってやってきた,と言いたげです。
これこそ,JさんがSさんに感じていた差別感情ではなかったでしょうか?
ツイッターという,インターネット上にアクセスするすべての人間に閲覧可能な場所で,精神障害者に対して自称健常者が猛攻撃を繰り広げる。しかもそれは,自称健常者が発したツイートに対し,障害者が「差別的ですね」と一言反論したところで炸裂します。
非常に面白い(興味深い)やりとりです。
ぼくはこの件で興味が湧き,差別感情とは何かを勉強し始めました。
調べるうちに,やはり同じツイッター上で,こんなコメントをしているアカウントを見つけました。
「自分は悪くない」という自己肯定が目的で「差別しているのは悪人」と他者化するのは手段にすぎない。上手に自分を騙すもの同士が相互欺瞞を強化し合う,差別思想そのもの。上手に自分を騙しているんですから,暴いたりせず,そっと対岸で見守りたいです。
思わず膝を打ちました。こんなコメント,ぼくが書けたらなあ。
ぼくが見かけた,SNS上のやりとりで,なるほどと考えさせられた例がありました。自称健常者と,双極性障害の二人のやりとりは,その後しばらくぼくの心に居据わり,強烈に興味を引きました。
ぼくなりに考察したことを,書き記しておこうと思います。
差別感情と承認要求はどこから来るのか,ぼくなりに考えた,今現在の意見です。
事の起こりは,双極性障害の仮称Sさんが,ある社会制度について怒りを表明し,「FUCK○○制」というキャプション付きで,中指を立てた写真をツイッターに掲載したところから始まります。
そのツイートに対して,自称健常者Jさんが「そういう事は書かない方がいい」と反応します。
Jさんはそこで,Sさんの投稿が不快で,常軌を逸しており,正気の沙汰ではないと立て続けにツイートし,挙句「また薬でハイになっているの?」「おかしい事(をしているということ)がわかんないんだね」「ガキじゃあるまいし」「怖い」「(その制度へ対する怒りは)今さら主張することではない」と畳み掛けます。
Sさんは,自分のツイートによってJさんを不快にさせたことを謝罪し,該当のツイート写真を削除しますが,Jさんの怒りはおさまりません。続けざまに非難と暴言を浴びせ続けます。
Sさんは,投稿が不適当なものだったと認めながら,「また薬でハイになっているの?」というJさんのアクションに,「現在のうつ病治療では,気分を覚せい剤のように高揚させるようなものは処方されていない」という趣旨の答えを返しますが,Jさんは「こっちは医者じゃないんだからそんなの知らねえし」。
Jさんからの大量の非難ツイートに対して,Sさんは一つづつリツイートしながら返信を書き始めますが,今度はそれに対してJさん「(SさんがJさんの罵詈雑言ツイートを)リツイートしてんの,残すため?怖い」
ここで初めてSさんが反論します。「コメントが差別的だね」。
この辺りでSさんはJさんをブロックしたようです。
Jさんの怒りは頂点に達したかに見えます。
Jさんのツイートは止まりません。
「(社会制度に対する)怒りの内容がどうあれ,手段が常軌を逸しているようにしか見えない,怖い,こっちの方がやられそう」
「ツイートもブロックか(笑)沈黙といいねしか言わない人々に囲まれていれば,確かに傷つかずに済むわね。精神障害者との関係はリスクも伴うけど,なぜ関わり続けるかの理由がね,難しい。だからみんな避けたがる」
「障害者だからってスルーしてきたけど限界があるよね,まともじゃないってだから障害者なんだけどさ,それを差別としか受け取れないのも障害者ゆえかしら~と思ってみたり」
「また薬でハイになっているの?とか,おかしいことがわかんないんだね,とかコメントしてたんだけど,それを後でリツイートしてんの(残すため?)怖いから発言削除しちゃった。やりすぎたのはわかってるけど,うんざりしてたのも事実。プロフに精神障害者と書く人の心理を考えてみたり」
少し長くなりましたが,ぼくはこのやりとりを眺めて,様々なことを考えました。
皆さんはどのような感想をお持ちになるでしょうか。
あまりセンスが良いとは言えない中指おっ立て写真をツイッターで投稿してしまうSさんのネットリテラシは確かに稚拙であるように受け取れます。
結果こういう絡みに巻き込まれるのも,ある程度想像してツイートしていくべきだったのかもしれません。
しかしツイッターにはもっとセンスが悪いツイートが多数,容易に見つかります。
ではなぜ,Jさんは謝るSさんにここまで牙をむいたのでしょうか。
Jさんのツイートにもあるように,JさんはSさんと知り合い?だったようです。「障害者だからとスルーしてきた」とあります。
障害があることを分かった上で付き合ってやってきた,と言いたげです。
これこそ,JさんがSさんに感じていた差別感情ではなかったでしょうか?
ツイッターという,インターネット上にアクセスするすべての人間に閲覧可能な場所で,精神障害者に対して自称健常者が猛攻撃を繰り広げる。しかもそれは,自称健常者が発したツイートに対し,障害者が「差別的ですね」と一言反論したところで炸裂します。
非常に面白い(興味深い)やりとりです。
ぼくはこの件で興味が湧き,差別感情とは何かを勉強し始めました。
調べるうちに,やはり同じツイッター上で,こんなコメントをしているアカウントを見つけました。
「自分は悪くない」という自己肯定が目的で「差別しているのは悪人」と他者化するのは手段にすぎない。上手に自分を騙すもの同士が相互欺瞞を強化し合う,差別思想そのもの。上手に自分を騙しているんですから,暴いたりせず,そっと対岸で見守りたいです。
思わず膝を打ちました。こんなコメント,ぼくが書けたらなあ。
ぼくが肉体改造やホルモン治療をしない理由はなんだろうと考えてみます。
(1)2015年現在、受診・治療に対して医療上の保険適用や社会保障などがない(ホルモン治療や性別適合手術に関して)
これは非常に大きい問題です。タイなど海外では性別適合手術、ホルモン治療に関する技術や意識の高まりは見られますが、費用が非常に高い。
ぼくみたいな経済状況にある人には手が届かないばかりか、日本国内で安価な医療を求めるとしたらそれは健康上不完全なヤミ医療に近く、まだ治療の指針など国が保証や支援をしていない、いわば危険な綱渡りとなること。
ぼくは、ホルモン治療、性別適合手術に対して、寿命が縮まるような医療行為を望んでいない、ということに尽きます。
(2)体が変わったあとの、自分に起こる変化、環境に起こる変化(家族、友人、会社、恋人など)の想像がつかない。
当然ながら起こりうる精神と肉体への変化に対して、まず自分がどう受け止めるのかの想像がつかないこともありますが、ホルモンという体内分泌物は、精神への影響が大きいものです。うつ病になったり、精神が不安定になったという話はほんとうによく聞きます。
1でも触れたように、社会的、医療的受け皿がなく、また人々の偏見や差別にさらされることも多々あり、ただでさえ自分の体が変化していくことへの受け止めに周囲の支援が必要な状態において、それを取り巻く社会が偏見や差別にあふれている状態では、トランスジェンダー・トランスセクシュアルの人たちに自殺者が多いことは当然の統計といえるかもしれません。
ぼくは、嫌だ。
(1)2015年現在、受診・治療に対して医療上の保険適用や社会保障などがない(ホルモン治療や性別適合手術に関して)
これは非常に大きい問題です。タイなど海外では性別適合手術、ホルモン治療に関する技術や意識の高まりは見られますが、費用が非常に高い。
ぼくみたいな経済状況にある人には手が届かないばかりか、日本国内で安価な医療を求めるとしたらそれは健康上不完全なヤミ医療に近く、まだ治療の指針など国が保証や支援をしていない、いわば危険な綱渡りとなること。
ぼくは、ホルモン治療、性別適合手術に対して、寿命が縮まるような医療行為を望んでいない、ということに尽きます。
(2)体が変わったあとの、自分に起こる変化、環境に起こる変化(家族、友人、会社、恋人など)の想像がつかない。
当然ながら起こりうる精神と肉体への変化に対して、まず自分がどう受け止めるのかの想像がつかないこともありますが、ホルモンという体内分泌物は、精神への影響が大きいものです。うつ病になったり、精神が不安定になったという話はほんとうによく聞きます。
1でも触れたように、社会的、医療的受け皿がなく、また人々の偏見や差別にさらされることも多々あり、ただでさえ自分の体が変化していくことへの受け止めに周囲の支援が必要な状態において、それを取り巻く社会が偏見や差別にあふれている状態では、トランスジェンダー・トランスセクシュアルの人たちに自殺者が多いことは当然の統計といえるかもしれません。
ぼくは、嫌だ。
労働法・雇用法がガンガン黒く塗られていく昨今、就活予備軍、就活真っ只中人、そして就活強迫症な背水の陣にある求職者が激増している実感があります。
ぼくは職務経歴書が何ページにも及んでしまう転職・失業を繰り返した半生を生き、今の生活を手にしているわけですが、その辺の経緯を今年はきっちりまとめていきたいと考えています。
ぼくはFtXである事によって就職上様々な困難と出逢ってきて、また精神障害者である事によっても人権軽視に晒され食べる事もできずに栄養失調で病院に搬送された事もあります。
そんな荒野を歩いたひとりの人間として、経験から得たアイデアを個々のカテゴリで書いていけたらと思っています。
派遣社員、契約社員、LGBT、精神障がい。
そして現在の雇用情勢。
ぼくの人生の「ハッキング」、今日から書き始めます。
ご興味のある方、どうぞフォローしてってください。
レールに乗らない、むしろ乗れないぼくの、FtXで双極性障害な就労観を綴ります。
サイドビジネス勧誘、ネットビジネス勧誘の方は、お門違いです、お帰りいただけたらと思います。
ブログネタ:クリスマスにほしいものはなに? 参加中ぼくには、ひとりでは生活することができない友人が何人かいます。
行政や福祉の力なしには生活が成り立たない、障害を持った仲間たちです。
シェルターが必要な理由。
それはDVや犯罪に巻き込まれた経験のある友人が加害者から完全に隔離され安全を確保でき、かつまた心底ここであれば大丈夫なんだという安堵を得られる場所は、残念ながらこの社会のシステム上、行政の仕組み上、まだ無いのが現状だからです。
そして、精神障害を持つ友人については、まともなサポートや医療へのつながりを持ったグループホームなどが、やはり現状存在しないこと。
ぼくの夢は、こうした社会に生きる上で高い障壁を持っている生活困窮者らが共助して、地域に溶け込めるような、家です。
シェルター機能がなければ意味が無い。
精神的、身体的安心と安全が確保できる場所。
どうです、アメブロさん。
一大プロジェクトで、こんな家作って見てくれませんか。
注目度大ですよ。
海外からの注目も浴びるでしょう、ブログプロバイダがソーシャルワークに乗り出した、ってね。
ぼくは、有名ではない舞台女優でした。
日常から女アイコンを身にまとい、至る所で女を演じさせられていたぼくは、様々な「生」「性」を生きることが出来る役者になったのです。
20歳からなので,もう20年この「俳優」という看板を掲げていたことになります。
役者稼業は面白かった。7割は怒られていて,3割は賞賛されていました。
殴り合いの殺陣を汗だくになりながら習ったり,オペラ俳優さんに声の出し方を習ったり,従軍慰安婦の話を聞きにマニラへ行ったり,そこで貧富の差を叩きつけられ鬱になったり,自閉症の観客が,舞台上でぼくの喋ったセリフを一字一句間違うことなく覚えて来たり,超有名俳優さんと同じ舞台,同じ稽古場でゼロから演劇を作り上げる経験をしたり。
とても楽しかった。興味深かった。
けれど,そんな毎日の連続の中で,ぼくはどうしても「女」であることを求められ続けた。ぼくは自分で「女が演じたい」と申し出たわけではない。一度だってない。
けれど,生まれ持った体が女性であることで,暗黙の了解としてぼくに振られたのは常に女性の役どころだった。
歌舞伎役者には,女形という役者の業態がある。男性が女性を演じるというもの。ぼくはそんな柔軟な仕事の仕方に突破口を見つけたような気分だったのかもしれない。
しかしそれは,伝統と男社会の特権。
宝塚は?という声が聞こえてきそうだけれど,あんな男社会によって成り立ってきたパフォーミングアートは宝塚だけだろうと思う。つまり宝塚は男の特権が作り出した枠組みの上で成り立っているとぼくは思うのだ。
ぼくは喜劇俳優になりたかった。俳優というよりむしろ,ビートたけしや明石家さんまらのように,コントを立って生計を立てたかった。
なぜなら,老若男女を一人のコメディアンが演じ分けるのだ,元々の性別が女だろうが男だろうが関係ない。
役を演じることについて語り出せば,ぼくはきっと一晩でも二晩でもしゃべることができる。
それほど,楽しかった。できることが増えるたびに感激した。ぼくを見て笑ってくれるお客さんがいることが何より嬉しかった。
けれどぼくはいつでもどこでも,女でいることを求められた。女が,老婆を演じる面白さを求められた。女が,外国の母親を演じることを求められた。
ぼくは女ではない。女形希望の役者でもない。けれど,この世の中では常に,まず女を演じなければならない。
それが,苦痛だった。
ぼくにとって,役者であることはアイデンティティであった。
社会とコミュニケーションをとることのできる手段であった。
しかし,条件付き。
まず女であること。
2011年,某巨大フリージャズオーケストラのオペレッタ公演に出演したのを最後に,ぼくは舞台に立っていない。
その時の役は,馬鹿なウサギの王子だった。
今まで演じたどの役よりも面白かった。
双極性障害による,断続的に襲いかかる鬱状態のために,ぼくはあらゆる活動を自信を持って引き受けることができなくなった。役者活動に関わらず,仕事も,ボランティアも,自分の日常生活でさえも。
いつか復帰するぞ。そんな思いで,肩書き「舞台俳優」は掲げたまま過ごしてきました。
でも。
条件付きの「女優」に戻ることには,意欲が出なかった。
戻るべき場所,活動として,捉えるには,あまりにも枷が大きかった。
ぼくは今日限りで,舞台俳優という肩書きを一旦,おろします。
「女性」性を,一旦おろします。
人が書き出す脚本に,自分を曲げて押し殺して参加するよりも,自分が生き生きできる物語を書けばいいじゃないか,そう思っていてできなくて苦しかった脚本執筆への枷も,外します。
真っ裸になって,見える景色の中に,純粋に自分が進みたい方向が見出せるまで,どんな看板も背負わないことにしたい。
そう,女性であることも含めて。
役者稼業は面白かった。7割は怒られていて,3割は賞賛されていました。
殴り合いの殺陣を汗だくになりながら習ったり,オペラ俳優さんに声の出し方を習ったり,従軍慰安婦の話を聞きにマニラへ行ったり,そこで貧富の差を叩きつけられ鬱になったり,自閉症の観客が,舞台上でぼくの喋ったセリフを一字一句間違うことなく覚えて来たり,超有名俳優さんと同じ舞台,同じ稽古場でゼロから演劇を作り上げる経験をしたり。
とても楽しかった。興味深かった。
けれど,そんな毎日の連続の中で,ぼくはどうしても「女」であることを求められ続けた。ぼくは自分で「女が演じたい」と申し出たわけではない。一度だってない。
けれど,生まれ持った体が女性であることで,暗黙の了解としてぼくに振られたのは常に女性の役どころだった。
歌舞伎役者には,女形という役者の業態がある。男性が女性を演じるというもの。ぼくはそんな柔軟な仕事の仕方に突破口を見つけたような気分だったのかもしれない。
しかしそれは,伝統と男社会の特権。
宝塚は?という声が聞こえてきそうだけれど,あんな男社会によって成り立ってきたパフォーミングアートは宝塚だけだろうと思う。つまり宝塚は男の特権が作り出した枠組みの上で成り立っているとぼくは思うのだ。
ぼくは喜劇俳優になりたかった。俳優というよりむしろ,ビートたけしや明石家さんまらのように,コントを立って生計を立てたかった。
なぜなら,老若男女を一人のコメディアンが演じ分けるのだ,元々の性別が女だろうが男だろうが関係ない。
役を演じることについて語り出せば,ぼくはきっと一晩でも二晩でもしゃべることができる。
それほど,楽しかった。できることが増えるたびに感激した。ぼくを見て笑ってくれるお客さんがいることが何より嬉しかった。
けれどぼくはいつでもどこでも,女でいることを求められた。女が,老婆を演じる面白さを求められた。女が,外国の母親を演じることを求められた。
ぼくは女ではない。女形希望の役者でもない。けれど,この世の中では常に,まず女を演じなければならない。
それが,苦痛だった。
ぼくにとって,役者であることはアイデンティティであった。
社会とコミュニケーションをとることのできる手段であった。
しかし,条件付き。
まず女であること。
2011年,某巨大フリージャズオーケストラのオペレッタ公演に出演したのを最後に,ぼくは舞台に立っていない。
その時の役は,馬鹿なウサギの王子だった。
今まで演じたどの役よりも面白かった。
双極性障害による,断続的に襲いかかる鬱状態のために,ぼくはあらゆる活動を自信を持って引き受けることができなくなった。役者活動に関わらず,仕事も,ボランティアも,自分の日常生活でさえも。
いつか復帰するぞ。そんな思いで,肩書き「舞台俳優」は掲げたまま過ごしてきました。
でも。
条件付きの「女優」に戻ることには,意欲が出なかった。
戻るべき場所,活動として,捉えるには,あまりにも枷が大きかった。
ぼくは今日限りで,舞台俳優という肩書きを一旦,おろします。
「女性」性を,一旦おろします。
人が書き出す脚本に,自分を曲げて押し殺して参加するよりも,自分が生き生きできる物語を書けばいいじゃないか,そう思っていてできなくて苦しかった脚本執筆への枷も,外します。
真っ裸になって,見える景色の中に,純粋に自分が進みたい方向が見出せるまで,どんな看板も背負わないことにしたい。
そう,女性であることも含めて。
数か月に1回程度の更新にもかかわらず、読んでくださっている人がいること、とても励みになっています。
「いいね」をくださっている人たちを遡って見ていたら、同じ方が何度か訪問してくださっていることが判り、今更ながら感謝の気持ちを書き記したいと思いました。
ぼくは精神疾患があり、また性同一性障害という枠には微妙に当てはまりきらないセクシュアルマイノリティで、何重にも重なる社会生活への障壁があります。
医学や社会に貼られた「○○障害」というラベルだったり、セクシュアルマイノリティというカテゴライズだったり、何重にも重なる生きにくさを抱えながら、それでも生きることの楽しさを感じていくことを、なんとかこのブログに書き残して行くことで、ぼく自身が絶望や行き止まりの思考回路に支配されてそれらを思い出せなくなったときに読み返して、もう一度生きることへの希望や意欲を取り戻せたらいいなという理由で、このブログを続けています。
FtX、双極性障害、といったキーワードで検索して訪問してきてくださる方が多い中で、ぼくはそれとはあまり関係のない、アイデンティティや社会問題などについてつぶやくように書き散らかすことが多いのですが、恐らくそういうテーマのブログを発表するには、あまりに知識がなく、ニュースや社会問題に対するぼく自身の怒りを何も精査することなくただ発散するように書いてしまっており、それについて不快に感じる方がいたら、申し訳なく思います。
今後どういう風に、何を書いていこうかはまだまだ方向性が掴めないのですが、書くことが僕自身にとって大きな助けになっていることは確かで、また願わくば、こうして書くことで誰かのハッピーにつながったり、考えるきっかけになったり、気分転換になったりしたら、それはこの上ないぼくの喜びです。
現在コメントは承認制を採らせていただいており、それはいわゆるネットビジネスやコマーシャル的なアカウントからの釣りコメントでいっぱいになってしまうことを避けるためで、ぼくのブログを読んで、訪問者の方が考えたことや感じたことをコメントしてくださっているものが埋もれてしまわないためです。
頂いたコメントはそういったコマーシャル的なものも含めてすべて読んでいます。そして、コメントを下さった方がブログで何かを書かれていたり、プロフィールにぼくと興味が近いことを書かれていたりする場合には、読ませていただいたりしてます。
また、基本的にコマーシャル的なコメントでない限り、承認し公表させていただいています。
ぼくはこのブログを読んでくださった方との幅広い意見交換や、もしくはその時の気分のやり取りなどをすることを望んでいます。
どうぞお気軽に考えたことや感じたことを書き込んでください。
文章だけのやり取りになってしまいますが、そうした交流の中で、さまざまな人たちと、生きることへの希望や、時には不安などをシェアすることで、ぼくたちマイノリティと呼ばれる人々が少しでも希望を持って生きることを考えられるきっかけになることを願ってやみません。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
「いいね」をくださっている人たちを遡って見ていたら、同じ方が何度か訪問してくださっていることが判り、今更ながら感謝の気持ちを書き記したいと思いました。
ぼくは精神疾患があり、また性同一性障害という枠には微妙に当てはまりきらないセクシュアルマイノリティで、何重にも重なる社会生活への障壁があります。
医学や社会に貼られた「○○障害」というラベルだったり、セクシュアルマイノリティというカテゴライズだったり、何重にも重なる生きにくさを抱えながら、それでも生きることの楽しさを感じていくことを、なんとかこのブログに書き残して行くことで、ぼく自身が絶望や行き止まりの思考回路に支配されてそれらを思い出せなくなったときに読み返して、もう一度生きることへの希望や意欲を取り戻せたらいいなという理由で、このブログを続けています。
FtX、双極性障害、といったキーワードで検索して訪問してきてくださる方が多い中で、ぼくはそれとはあまり関係のない、アイデンティティや社会問題などについてつぶやくように書き散らかすことが多いのですが、恐らくそういうテーマのブログを発表するには、あまりに知識がなく、ニュースや社会問題に対するぼく自身の怒りを何も精査することなくただ発散するように書いてしまっており、それについて不快に感じる方がいたら、申し訳なく思います。
今後どういう風に、何を書いていこうかはまだまだ方向性が掴めないのですが、書くことが僕自身にとって大きな助けになっていることは確かで、また願わくば、こうして書くことで誰かのハッピーにつながったり、考えるきっかけになったり、気分転換になったりしたら、それはこの上ないぼくの喜びです。
現在コメントは承認制を採らせていただいており、それはいわゆるネットビジネスやコマーシャル的なアカウントからの釣りコメントでいっぱいになってしまうことを避けるためで、ぼくのブログを読んで、訪問者の方が考えたことや感じたことをコメントしてくださっているものが埋もれてしまわないためです。
頂いたコメントはそういったコマーシャル的なものも含めてすべて読んでいます。そして、コメントを下さった方がブログで何かを書かれていたり、プロフィールにぼくと興味が近いことを書かれていたりする場合には、読ませていただいたりしてます。
また、基本的にコマーシャル的なコメントでない限り、承認し公表させていただいています。
ぼくはこのブログを読んでくださった方との幅広い意見交換や、もしくはその時の気分のやり取りなどをすることを望んでいます。
どうぞお気軽に考えたことや感じたことを書き込んでください。
文章だけのやり取りになってしまいますが、そうした交流の中で、さまざまな人たちと、生きることへの希望や、時には不安などをシェアすることで、ぼくたちマイノリティと呼ばれる人々が少しでも希望を持って生きることを考えられるきっかけになることを願ってやみません。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。




