「死」
死ってなんだ。
本日、祖父が亡くなった。
最後にあったのは一か月前だった。その時はとても元気だった。
一か月前に会うまでは、中学高校と6年以上も会っていなかった。
自分の中で、祖父であるという感覚は持っていたが。近しい家族という感じはあまりしていなかった。人となりもよく覚えてはいなかった。
五年も会っていなかったのだから当然かもしれない。
そんな祖父が、今日天に召された。
母から知らされたとき、私は最初に何を感じたか。
何も考えられなかった。
絶句という言葉が適当であろう。
と、同時に「これだけ疎遠になっていたのに、やはりショックを受けるものなのか」とも感じた。
普段私は、人が亡くなるニュースを見聞きしても、特段心を痛めることはない。
その人とのつながりがあるわけでもないので、当たり前かもしれない。
祖父に関しても、同じようなものだと思っていた。
ずいぶん前から長くはもたないだろうと聞いていた。
私は特に何も感じず、「生きとし生けるもの必ず死は訪れるのだろう。」などと考えていた。
同時に、死後の世界なるものも全く信じてはいなかった。
人が死ぬのは眠るのと同じで、それ以降何も感じることは出来ないのだろう。と思っていた。
しかし、実際に祖父の死が訪れてみるとどうか。
以前の私の言葉は、未経験故に無知な人間の浅はかな言動だったようにも感じられる。
長らく会っていなかったとはいえ、生存しているという事の意味はとても大きなものだったと知る。
もう二度と会うことが出来ないという苦痛を知る。
生きているから、この6年は会えずともいつか会えると思っていた。
そんな状況に胡坐をかいていた。
幼子のころ遊んでもらった記憶や、一か月前にあった時の記憶がフラッシュバックする。
生きていればこんなこと考えなかったであろう。
今日だけは、「人は死んだらそれで終わり」と考える事は出来ないだろう。
普段信じていないのに、死後の世界を願う自分がいる。
祖父が天国に行けますようにと、願う自分がいる。
普段見知らぬ人が亡くなった時、そう考えたことがあるだろうか。
自分は無関心な人間だと自覚している。
しかしそれでも、家族が亡くなった時、普段とは全く違うことを考えるものだ。
思うに、死後の世界とは、生きる人々への救済措置であろうか。
そう信じることで、悲しみを和らげるものだろうか。
だとしたら、生きている人にとっては意味があるものかもしれない。
ではなくなった人にとってはどうなのか。
生前死後の世界があると信じていたのは虚構だったのか。
そう考える事で心を安らげていたが、いざ自分の番になるとそんなものは無かったと知るのだろうか。
否。知ることは出来ないと思う。
なぜなら死後の世界は存在せず、彼らは眠りにつくのだから。
しかし、あってほしい、あるに違いない、そこへ行き、平穏の中に元気で暮らしてほしいと思う自分も存在する。
このようなことを考えなければ、自分は一心に死後の世界を信じ、祖父の死後も天国へ行ったと、悲しみながらも安心できたかもしれない。
二十歳の人間が考える事なので、何一つ確証はない。
もしかしたら誰も確証を持てていないのかもしれない。
死後の世界について勉強してみよう。
その結果、自分の中で拠り所が見つかるかもしれない。
話が変わるが、仮にこれが更に近しい人間だったらどうなるのだろうとも考えた。
恐らく今のように理性的ではいられないかもしれない。
ひたすらに悔やみ、願い、最後には天に召されたんだねと折り合いを付けるかもしれない。
しかしこの、特殊な距離感の祖父の死は、自分を死について考えさせる方向へと向かわせた。
無論悔やみや願いが無い訳はない。
祖父の死は、自分を真理探究へと向かわせ、同時に身近な人を失いたくはないと再認識させた。
生きることは難しいことだと感じる。
時間も、使える身体も、手足も、すべてが有限で少ない。
それらを家族に使うか、友人に使うか、恋人に使うか、自分という個人に使うか。
結局、会える人には会えるうちに会っておこうという結論に至る。
今回の件で一番悔やまれたのは、祖父という人間をちゃんと知れなかったことだ。
家族だから、やはり隅々までその人の事を知りたい。
祖父の死が自分に与えたものを無駄にせず、自分もこの有限な人生を存分に味わいたいと感じた。
ありがとう。おじいちゃん。