カレンダー「道を拓いた女性たち」2020年3月はマリア・シルヴィア・クルーズ
カレンダー「道を拓いた女性たち」2020年3月はMaria Silvia Cruz(1915-1936)です。「“La Libertaria”、スペインのアンダルシア出身のアナーキスト」と表記されています。 以下翻訳です。 マリア・シルヴィア・クルーズ(1915-1936) まさに21歳に、かの女はなったところだった。しかしスペインではかの女は、すでに17歳のときから有名だった。マリアの父と祖父は炭焼き人であった。山の辺鄙なところでの労働は過酷で、収入は僅かで、そしていつも家族の男たちは日雇い労働者として、その地の大地主に雇われざるをえなかった。あるとき、家族の1人が、医者に診てもらえなくて亡くなったとき、一家は20キロ離れたカサス・ビエハス村に引っ越すことに決めた。そこで、アナーキスト系の労働組合CNT(Confederación Nacional del Trabajo)との接触が持たれた。その労働組合は唯一、その地方の民衆の厳しい状況を心にかけていた。マリアは一時期、お手伝いとして働き、そして1932年11月にCNTの少女グループ、Amoy y armonía(愛と調和)が創設されたときも、そこにいた。1933年1月にCNTがそのメンバーたちに蜂起を呼びかけた-そしてカサス・ビエハスではその呼びかけは真剣に受けとめられた-。活動家たちは村長を辞めさせ、そして駐在所を急襲した。その際、一人の役人が射殺され、別の一人がかなりの傷を負い、後に亡くなった。その蜂起は、国家が援軍をその辺鄙な地域に派遣するまで、ほぼ2日間続いた。最終的に、50人を超える重武装をした警官によって国家権力は蜂起者たちに対抗した。役人たちは一斉手入れを実行し、若干の村人を拷問し、そして殺し、そして最後には粘土でできた小屋に火を放った。その小屋にマリア、かの女の祖父およびその他の家族が隠れていたのだ。9人がそこで死に、マリアと一人の幼い少年だけが脱出した。その上、最後に、1月11日の明け方のことであるが、警察の指揮官がアナーキストと間違われた12人を小屋の前で銃殺させた。数日後、マリアは拘束され、そして拘置所に入れられた。拘置所で、かの女はマドリードから来ていた記者たちに自分が見聞きした出来事を語った。かの女の証言によって、そしてまた村からのさまざまなルポタージュによって、カサス・ビエハスは突如、警察の専横とその地方の未解決の社会問題を象徴するものとなった。マリアは1か月ほどたってから再び自由になり、CNTの活動家であったかの女の友人とともにマドリードに引越し、社会的に、かつ繰り返し、かの女が何を体験したのかを語り、そして“La Libertaria”(女性アナーキスト)としてスペイン中で有名になった。1935年に、かの女は一人息子を得て、そして同じ年に母子は再びアンダルシアに戻った。1936年7月に内乱が始まると、かの女は拘束され、そしておそらく1936年8月23日に銃殺された。かの女の亡骸は-多くの女性の同志たちがそうであったように-今日まで発見されていない。