おかげでエアコン無しでも快適で、過ごしやすいのでありがたいです。
夏のあいだは相当な出不精と化してましたが、今週は久しぶりに都内散歩にも行ってきました。
そのことは今日は置いておいて・・・
久しぶりにブログを書こうという衝動にかられたのが、あるコラムを読んだからです。
毎月「VISA」から、その名もズバリ「VISA]というタイトルの情報誌が届くのですが(笑)
その中に『名画鑑賞』というコラムがあって、松尾スズキという方が記事を書いてます。
で、今月の名画として掲載されているのが『非現実の王国で』の挿絵。
なにやらキッチュな色使いのキモカワいい少女達の絵です。
作者は「ヘンリー・ダーガー」というらしい・・・ んー・・・ 知らん ( ゜∋゜)
以下コラム記事の転載↓↓↓
アウトサイダーアートと聞いて、思い浮かぶのは山下清のようになにかしら疾患を抱えた画家の作品を思い浮かべますが、世捨て人や犯罪者、いわゆる世間のアウトサイダーの絵も広義には含まれます。
その作品が「売るため」ではなくただ本人のやむにやまれぬ「衝動」によって描かれたもので、発表すらせずしかも膨大であったりするのも特徴の一つです。
アウトサイダーアーティストの代表格はやはり、ヘンリー・ダーガーということになるでしょう。彼は実際知的障害者の施設で生活していましたが知能が低かったわけではなく、どちらかというと世捨て人の類の「変人」だったのだと思います。
ダーガーはその生涯のほとんどを病院の清掃人としてすごしましたが、彼の死後、その部屋からはとんでもない量の作品群が発見され、世に知られるようになったのです。それは60年間に渡って書かれた『非現実の王国で』という巨大な挿絵付きの、15,000ページにわたる小説でした。
話題になったのは内容よりその挿絵で、雑誌からの切り抜きやトレースを多用してスペースいっぱいにビッシリ描かれた極彩色の少女たちの絵は、物語の壮大さを物語るだけでなく、技法など知るか!とにかく美少女たちを描きたい!量、描きたい!という「半端でないやる気」に満ちており、それを「別に誰にも見せたくない!」という我々フツーの表現者とは真逆で頑固な意思に貫かれており、我々を圧倒するのです。
これは、すごいことです。
私は演劇をやっているので、それを自分の仕事に置き換えるなら、さんざん稽古した芝居を
「誰にも見せない」
ということと同じだからです。
そんなことしたら劇団員に袋叩きにあいます。しかし「稽古だけが目的の演劇」とはなんだろう。
もしかして、それをロマンと呼ぶのではなかろうか、などとダーガーの絵を見ていると妙な夢想をしてしまう自分がいるのです。
転載終わり

自分の内側に最近浮上してきていた「魂の問」があって、今朝もそのことをツラツラ想っていたのですが、
昨日届いていた、この雑誌を何げにめくっていたら目にとまったのが このページだったというわけです。
上記の文章のどの部分が、私の問いに共鳴したかというと・・
「別に誰にも見せたくない」という我々フツーの表現者とは真逆で頑固な意思~
さんざん稽古した芝居を
「誰にも見せない」ということと同じ~
という辺り・・・

この感覚はそうか!ロマンだったりするわけだ!という美学的な孤高さを認め、
それってアリなんだよね~という共感が得られた点にあります。
私がアウトサイダーアートが好きとかそういう話ではないですよ。はじめて耳にした世界だし・・。
その、松尾さんの解説を借りた問への答えのヒントがね、
久しぶりに自分の深層に響いたので、読み終わって涙が湧いてきました

フツーの表現者的な展開でいけば、できるようになったことを観せたいということになるのでしょうが、
私の中にもある、その「フツーの表現者じゃない感覚」が何なのか?という問があって
それは、作品ということだけではなくて、多分ほかの人よりも上手く出来ることや、解ること、
そいううことはステップアップしたら次の段階としては「活かす」という順序なんでしょうね。
で、何故かそこに行くと急に興味が薄れてしまうんです。
それってなんなんだろう?って、度々思ってきたのですが、そしてあまり良くない癖なのか?とか・・
良くわからなかったんですよね。
幼い頃に強く意識した「フツー」ということについて、そうじゃないエリアからの脱却をまず目指していたくらいだから、これは生まれる前からの何らかのテーマかも知れませんね。
フツーじゃないエリアからの脱却とは、精神的にも環境的にも自分の受け取り方的にも。


ちょっと話がそれましたが、この「ロマン」かもしれないという視点。
これが言いえていると感じた、その感覚を言葉で説明するのは難しいですが、
それは結局根本的に、自然という諸行無常に通じる部分な気がしてきました。
やはりどこか深い部分で醒めているのでしょうか。
成しても成さなくても同じなんだ・・というマクロ視点が湧いてきてしまう。
成功して結果を残して喜ぶというのが、どうも人間臭さの骨頂のように思っている深い部分があるのかな?
それはもしかしたら、人間として魂の学びをしに生まれたことへの、ささやかなレジスタンスなのかもと思えたりするわけです。
















