村下孝蔵→こうぞう→構造→構造主義とは? | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

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(村下孝蔵 初恋)


私くらいの年齢集団が、「こうぞう」という言葉を聞いて思い浮かぶのは,村下孝蔵だ。
だから,二十代や十代に聞けば,また違った応えが返ってくるに違いない。

「初恋」の名曲も,村下さんが存命中のリアルタイムで聞いてきた同世代と,そうでない世代とでは,その曲に対する感じ方も,それを聞いていて懐かしいと感じる人との距離も全く違う。

なんで私自身がこんな風に感じたり、思ったりするかというと,わたしにとってぴったりくるものがある。

それが、孝蔵主義、ノンノン,構造主義。

世の中がこのような説明に近い状態だからだ。↓

私たちは常にある時代、ある地域,ある社会集団に属しており,その条件が私たちのものの見方,感じ方,考え方を基本的なところで決定している。だから,私たちは自分が思っているほど,自由に,あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは,ほとんどの場合,自分が属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識に排除してしまったものは,そもそも私たちの視界に入ることが無く,それゆえ、私たちの感受性に触れることも,私たちの主題となることもない。

私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども,実は,その自由や自律性はかなり限定的なものであることが、構造主義からくみ取れる。

就職して自活して、自律自立と申しても、お釈迦様から見れば、それは赤ちゃんが四足から二足歩行になったばかりの状態なのかもしれない。
ある種の無力感とやるせなさとが犇めき合っている中で,
それでも、尚且つ力強く前向きに、何が人を突き動かしているのかを考えるとき、過去の私も今の私も未来の私も、矛盾なくあれで良かったのだと言えるように振舞っていくだけ。確実なものはなくても、理想に近い自分自身を追求していくことはできる。最終的にはそれだけでは?