(以下青線は私)
仕事を見つけるにはどのような姿勢で臨んだら良いのかを
アドバイスしてくれる人は多くいるかもしれないが,
実際誰の話を聞いて,どの意見をとるかは,今現在,仕事を探している人や,将来の方向性を決定するための進路をどうしようかと考えている人に委ねられている。
最終的には本人が決断してするしかどうにもならないことなのだが。
親が望む大企業に就職したり,難しい国家試験に通って専門的な仕事に就くことが最良のような気がしているかもしれないが,親や周りの期待通りになることが果たして自分自身の適性のあることなのかどうかは,大変悩むところだと思う。
仕事探しをする上でヒントになると思うので,取り上げてみる。
5月2日に毎日新聞から,
http://mainichi.jp/select/news/20120502k0000e040197000c.html
パラサイト中年:300万人に 失業率は世代平均の倍
35~44歳の6人に1人、約300万人が未婚のまま親と同居していることが、総務省統計研修所が昨年まとめた推計で明らかになった。90年代に指摘された当時20~30代の「パラサイト・シングル」(親に依存する未婚者)の多くが、中年世代になっても依存を続けているとみられる
両親と同居する35歳以上の未婚者の平均年収は、94年の204万円から10年後には138万円に減少。気ままな若者の代名詞だったパラサイト像は変質し、統計研修所の西文彦教官は「経済的余裕がなくなり同居を長引かせているのでは」と話す。
というニュースが流れ,
一般的には,家族をもって生活するであろうと思われている中年世代まで自立できず親元でパラサイトし続けて生活する人が増えていることが分かる。
自分の親の世代になるまで親に世話になるような高校生ではまずいので,自立させるために親も真剣に考えていくべきだと思う。
親にとっても,自立させることが大変難しい世の中だといっていい。
内田先生のブログの「仕事力」について
http://blog.tatsuru.com/2012/05/02_0959.php #
(本文より)
自分の適性に合った仕事に就くべきだと当たり前のように言われていますが、「適職」などというものがほんとうにあるのでしょうか。
僕は懐疑的です。
就職情報産業は学生たちを、自分には「これしかない」という唯一無二の適職があるのだが、情報が足りないせいで、それに出会えずにいるという不安のうちに置きます。それに乗じられる学生たちが僕は気の毒でなりません。
仕事というのは自分で選ぶものではなく、仕事の方から呼ばれるものだと僕は考えています。
「天職」のことを英語では「コーリング(calling)」とか「ヴォケーション(vocation)」と言いますが、どちらも原義は「呼ばれること」です。
僕たちは、自分にどんな適性や潜在能力があるかを知らない。でも、「この仕事をやってください」と頼まれることがある。あなたが頼まれた仕事があなたを呼んでいる仕事なのだ、そういうふうに考えるように学生には教えてきました。
仕事の能力については自己評価よりも外部評価の方がだいたい正確です。頼まれたということは外部から「できる」と判断されたということであり、その判断の方が自己評価よりも当てになる。
「キャリアのドアにはドアノブがついていない」というのが僕の持論です。
キャリアのドアは自分で開けるものではありません。向こうから開くのを待つものです。そして、ドアが開いたら、ためらわずそこの踏み込む。
労働市場における「適職」という語の意味は、意地悪く言えば、「自分が持っている能力や素質に対していちばん高い値段をつけてくれる職業」のことです。とりあえず今はそういう意味で使われている。最も少ない努力で、最も高い報酬を得られる職種を求めるのは、消費者にとっては自明のことです。いちばん安い代価でいちばん質のよい商品を手に入れるのが賢い消費者ですから。その消費者マインドが求職活動にも侵入している。
でも、「費用対効果のよい仕事がいちばんいい仕事だ」というロジックを推し進めれば、ディスプレイの前でキーボードを叩くだけで何億円も稼ぐような仕事がいちばん「賢い」仕事だということになります。
「仕事をする」というのは「手持ちの貨幣で商品を買う」ことではありません。それはむしろ、自分がいったい何を持っているのかを発見するプロセスなのです。
最も少ない努力と引き替えに、最も高い報酬を提供してくれる職種、それを今の人たちは「適職」と呼びます。そして、就活する若者たちは適職の発見に必死です。
でも、それは消費者マインドがもたらした考え方に他ならないと僕は思います。
「賢い消費者」とは、最少の貨幣で、価値ある商品を手に入れることのできたもののことを言います。「賢い消費者になること」それが今の子どもたちのすべてのふるまいを支配しています。
学校がそうです。(高校教師の私からすれば大変気になる部分ですが,そうならないように必死に努力しているつもりです。私の目の届く部分だけですけれども。。。)
消費者的基準からすれば、最低の学習努力で最高の学歴を手に入れたものがいちばん「賢い学生」だということになります。
だから、ぎりぎり60点を狙ってくる。出席日数の3分の2が必須なら、きっかり3分の1休むようにスケジュールを調整する。60点で合格できる教科で70点をとることは、100円で買える商品に200円払うような無駄なことだと思っている。
ほんとうに学生たちはそう信じているんです。
僕の友人が大学の運動部の監督をしています。彼が用事でグラウンドに出られないときに、部員がこう訊きに来たそうです。
「何やっとけばいいんですか?」
彼はその問いにつよい違和感を覚えました。
当然だと思います。これは「何をすべきか」を訊ねる価値中立的な問いではないからです。そのように装っていますが、実際に訊いているのは、「それだけしておけばよい最低ライン」なのです。「あなたから文句を言われないミニマムを開示してください」学生たちはそう言っているのです。
これも友人の医学部の先生から聴いた話です。授業の後に廊下を追って質問に来る学生がいました。教科の内容について訊かれるのかと思って振り返ったら、「これ国試に出ますか?」と訊かれた。
この二つは同じ質問です。
学生たちは当然の質問をしているつもりですが、彼らが訊いているのは「ミニマム」なのです。その商品を手に入れるための最低金額の開示を求めている。
だから、「大学では何も勉強しませんでした」と誇らしげに語る若者が出現してくるのです。
彼らは最低の学習努力で、労働市場で高値のつく学位記を手に入れたおのれの「力業」に対する人々の賞賛を期待して、そう言っているのです。
ですから、就職についても、彼らは同じ原則を適用します。
「特技や適性を生かした職業に就きたい」というのは、言い換えれば、「最小限の努力で最高の評価を受けるような仕事をしたい」ということです。すでに自分が持っている能力や知識を高い交換比率で換金したい、と。
そういう人は、自分が労働を通じて変化し成熟するということを考えていません。
でも、「その仕事を通じて成長して、別人になる」ことを求めない人のためのキャリアパスは存在しません。
「どんな職業についても、そこそこ能力を発揮できて、そこそこ楽しそうな人」こそが成熟した働き手であり、キャリア教育はその育成をこそ目指すべきだと僕は思っています。
自分にどんな能力があるかなんて、実際に仕事をしてみなくちゃわからない。分かった時にはもうけっこうその道の専門家になっていて、今さら「別の仕事に就いていたら、ずっと能力が発揮できたのに…」というような仮定の話はする気もなくなっている、というものではないでしょうか。
(わたし: 自分が就く仕事を真摯に考えて仕事を誇りに思って取り組み,打ち込む姿勢に欠けるから,別の仕事に就いていたらと思って簡単に仕事を辞め,親もそれを許して,先程の毎日の記事にあるように,芋ずる式にパラサイト中年が大量に生み出されたのかもしれない。)
卒業して、社会人になったら、学ぶことは終わってしまうわけではありません。学びはエンドレスです。
でも、学び続けられる人は決して多くありません。
「学ぶ姿勢」のある人は何よりも素直です。つまらない先入観を持たない。
素直な人に訊かれると、こちらもつい真剣になる。知っている限りのことを、知らないことまでも、教えてあげたい気分になる。そういうものです
つねづね申し上げていることですが、学ぶ力には三つの条件があります。
(毎回同じことを言い続けないと人間は愚かだから大切なことですら忘れてしまうのを先生は良く分かっておられる)
第一は
自分自身に対する不全感。自分が非力で、無知で、まだまだ多くのものが欠けている。だから、この欠如を埋めなくてはならないという飢餓感を持つこと。
第二は、
その欠如を埋めてくれる「メンター(先達)」を探し当てられる能力。メンターは身近な人でもいいし、外国人でも、故人でも、本や映画の中の人でもいい。生涯にわたる師でなく、ただある場所から別の場所に案内してくれるだけの「渡し守」のような人でもいい。自分を一歩先に連れて行ってくれる人はすべてたいせつなメンターです。
第三が、
オープンマインド。人をして「教える気にさせる」力です。素直さと言ってもいいし、もっと平たく「愛嬌」と言ってもいい。
この三つの条件をまとめると、「学びたいことがあります。教えて下さい。お願いします」という文になります。
これが「学びのマジックワード」です。
これをさらっと口に出せる人はどこまでも成長することができる。この言葉を惜しむ人は学ぶことができません。学ぶ力には年齢にも社会的地位にも関係がありません。
これから仕事に就くみなさんのご健闘を祈ります。
がんばってください
内田研究室 「仕事力について」より