内田 樹先生の「情報リテラシー」に「ついて | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

内田先生が朝日新聞の紙面批評に書いた「情報格差社会」についてとても興味深かったので載せる。


http://blog.tatsuru.com/2011/09/16_1350.php


情報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」階層がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」階層がいる。その格差は急速に拡大しつつあり、悪くするとある種の「情報の無政府状態」が出現しかねないという予感がする。このような事態が出来した理由について考えたい。


(以下途中省略そして抜粋)


その「情報平等主義」がいま崩れようとしている。理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、一つは新聞情報の相対的な劣化である。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有していない。私はそれを危険なことだと思っている。


(以下途中省略そして抜粋)


「情報の良否が判断できないユーザー」の特徴は、話を単純にしたがること、それゆえ最も知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつくことである。


(以下途中省略そして抜粋)


「陰謀史観」は、この解釈を採用する人々に「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。そして、ひとたびこの全能感になじんだ人々はもう以後それ以外の解釈可能性を認めなくなる。彼らは朝から晩までディスプレイにしがみついている自分を「例外的な情報通」だと信じているので、マスメディアからの情報を世論を操作するための「嘘」だと退ける。こうやって「情報難民」が発生する。


(以下途中省略そして抜粋)


人々は今では個人単位で情報を収集し、「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値」についての中立的なメタ認知能力を失いつつある

(以下途中省略そして抜粋)


情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すこである。

(以下途中省略そして抜粋)


情報の階層化とは、そのことである。
、「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。けれども、彼らがそこに集まるのは「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。



(私のコメント)


公に自分の考え方ややり方を批判的に分析される場がないのは,非常に危険なことであることを述べられているのだと私は考えた。

また一般的に同じものを共有することが極度に少なくなってきている世の中で,人々がシェアできる価値判断基準が形成されなくなり,そういった状況で,自らが判断して批判することの根拠が薄れてしまい,これから起きるであろう最悪の状況を回避できる機会を与えられる頻度が,人によって異なってしまう。


しかもそれはある一定の人物に集中して恩恵を与え(アンテナがあるために気をつけていられる。),そうでない人には最悪の状況を容易に予知できるにもかかわらず,(本人がアンテナを張れない状況があるため)貧困スパイラルから抜け出せず,安易な情報操作に騙され,個人的にも不幸な人生しか送れなくなる。ということではないかと私は思う。


「情報難民」になれば,人と人の関係も希薄になり,凝り固まった考え方が若いうちから身に付いて,自らがどういう人間であるかを知るきっかけが薄れ,どの組織にも合わせることが出来ず,最終的に社会生活を破たんさせててしまう可能性があるのではないだろうか。