私がいつも更新されるたびに必ずチェックするブログがある。先月で神戸女学院の先生を退職した内田樹先生のブログだ。
まだ先生の存在に気づく前に,「お」というタイトルの(よく文書を作成する際に保存するのに「あ」などの簡易的な名前を入れて保存するような)目立たないブログがアメーバ上にあって,内容を読んでみると,非常にしっくりきた興味のわくものであった。
何度か絡んでいるうちに,内田先生のブログを生徒さんが仮に文章に起こして書いているものであることを,DM(ダイレクトメール)で知り,それから今に至るまでの3年余り更新されるたびに読んでいる。
なぜ,先生の文章に惹かれたのかと思い起こしてみると,
今まで私が知っている人達の物の見方とは一風変わった方向から物を見ておられて,それが私にとてもしっくりきたということ。教育をテーマに多く論じられていること。身近な生活に密着している話題を取り上げ,なお且つ専門用語は非常に分かりやすく丁寧で,学者ボケしていないところも非常に好感が持てた。女子大生をお相手にされていたからであろうか,広い意味で女性への敬意とか優しさが言葉の中に見られるのも魅力だった。
その先生が,兵站と局所合理性について書いていたことを話題にしようと思う。http://blog.tatsuru.com/2011/03/24_1029.php
以下抜粋
兵站学。本義は「輸送、宿営、糧食、武器、人馬の補給管理、傷病者の処置などに関する軍事科学の一分野」。日本陸軍は伝統的に兵站を軽視したことで知られています。
司馬遼太郎が書いていましたが、日露戦争のとき、兵士は数日分の食糧しか持たされず前線へ送られたそうです。「あとは現地で調達(強奪)せよ」ということです。伝統的に日本陸軍はそうだった。
今回の震災の危機管理を見て、「これは日本陸軍だ」と思いました。
「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」という戯れ歌のうちに大日本帝国戦争指導部の兵站軽視は反映していますが、同じことが今も続いている。前線の「兵士」の活躍は大きく報じるけれど、それを支える兵站の仕事を高く評価する習慣はない。だから、みんな「兵士」になりたがる。
中略
「豪腕」というのは、なにも現場に行って職員を怒鳴りつけることではありません。「無理が通る」ということです。「ルールの弾力的運用を求められる」ということです。
個人的な信頼関係です。「この人の頼みじゃ断れないよ」と思う人間を、枢要なポジションに網羅的に配備していること。それが「豪腕」の本質です。
兵站の仕事はですから危機対応ではない。危機の到来に先んじて、assets の形成に長い時間と手間暇をかけてきた人間だけがこの任に当たることができる。そういうタイプの政治家や行政官を重用することを怠ってきたことをもう少し重く受け止めるべきでしょう。
福島原発の処理を見て「戦力の逐次投入」という「必敗のパターン」を踏んで官邸と東電が動いているのを見て、不安になった人は多いはずである。
「いまのところ問題はありません。事態は好転しています」という「大本営発表」的な楽観論を繰り返す原子力学者たち(そのほとんどが東大教授)の顔つきにも私たちは気鬱な既視感を覚えたはずである。
どうして日本は「こんな国」になってしまったのか。
それが司馬遼太郎につきまとった生涯の問いだった。
明治40年代まではそうではなかった。日本人はもっと合理的で、実証的で、クールだった。あるときから、非合理的で、原理主義的で、ファナティックになった。たぶん、その両方の資質が日本人の国民性格には含まれていて、歴史的状況の変化に応じて、知性的にふるまう人と、狂躁的に浮き足立つ人の多寡の比率が反転するのだろう。
おおづかみに言うと、「貧しい環境」において、日本人は知性的で、合理的になる。「豊かな環境」において、感情的で、幼児的になる。
今度の震災と原発事故は、私たちが忘れていたこの列島の「本質的な危うさ」を露呈した。近代150年を振り返ると、「植民地化の瀬戸際」と「敗戦の焦土」という亡国的な危機において、日本人は例外的に、ほとんど奇蹟的と言ってよいほどに適切にふるまったことがわかる。そして、二度とも、「喉元過ぎれば」で、懐具合がよくなると、みごとなほどあっという間にその賢さを失った。「中庸」ということがどうも柄に合わない国民性のようである。
だから、私はこれは近代史で三度目の、「日本人が賢くふるまうようになる機会」ではないかと思っている。
総人口の10%が国土の0.6%に集住し、そこに政治権力も、財貨も、情報も、文化資本もすべてが集中し、それを維持するためのエネルギーも食糧も水もほとんど外部に依拠しているといういびつな一極集中構造が「火山列島」で国家を営んでゆくというプログラムにおいて、どれほどリスキーなものかは小学生にもわかる。
小学生にもわかる「リスクヘッジ」を誰も実行しようとしないのは、一極集中したほうが「効率的だ」と思っているからである。
もちろん「金儲け」にとっての効率である。
以下略
(ここからは私が書いたこと)
日本の病巣を的確に表現できる先生は凄いなぁといつも感じている。背中の痒くて手の届かないところを掻いて下さるような感覚。
日本人は表向きで活躍している人間は過大評価し,陰で働く人に焦点を全く当てない。
実体・実質を伴わなくても,目立てば評価するような雰囲気は,教育界では絶対にあってはならないと私は思っている。
目立っている人間が評価され,莫大な報酬も受け取ることができて,陰で働き支える人々が虐げられ,軽んじられるのであれば,誇りを持って陰で働く優秀な人はいなくなる。
教育がそのような「金儲け」の原理で語られ,政策が決められるようなことがあっては絶対にならない。特に,外国語(英語)分野は,そういう人(金儲けで人を勘定する,権力や名誉欲に翻弄されて,本質が見えていない人)が前に出て発言しやすいと,私は思っている。
実際に,今までずっとそうであった。教育とはかけ離れた変な人も多かったし,実際,未だに変なことを平然と言う人も見かける。言語は金儲けの手段にされやすいからだ。
訳のわからない,言葉ではっきりと説明できないような雰囲気を,自分の目でしっかりと確かめるまで,そのまま受け入れてそのまま讃嘆するなどしないように注意したい。
陰で大勢の人達が支えていることを軽視するような風潮は見つけたらコテンパンにやっつけていく。私は一人でもやる。大変な境遇にある人を窮地に陥れるようなことがあったら,絶対に立ち向かっていく。
日本人は傲慢になりすぎた。内田先生が言われるように,日本人が賢く振る舞えるようにどうにかしていかないと,子供のそのまた子供の時代の人達がこの土地に生まれたことをを誇りに思えるようにどうにかしていかねばと私も思う。