言語・語学の教科だけでなく,その他の教科においても「言語活動を活発にする教科指導法」の研究が盛んになってきた。
学生達の言語活動を盛んにしたいなら,
教師たちにまずそのルールを教えないとならないと私は考える。
あらかじめ教師が用意した答えに到達しなければいけないような,度量のせまい,それこそ自由な言葉のやり取りのない中で,
生徒たちの自由闊達で活発な言語活動など行われるはずがない。
それと,まだ生徒に十分な知識がないのに,
「さぁ,言ってみろ!」と要求するのは,あまりにも酷。
ある一つの議論,課題に対して,知識なしに議論など出来ない。
議論するために,自ら知識を身につけたいと思うよう,彼らが興味を持つよう仕向けることが教師に要求されることと私は思う。
彼らの意見は千差万別。ひとつひとつ違っていて,それのすべてが正しいかもしれないのだ。
一つにすっきりまとめることを要求される教育現場に,本当の意味での自由な言語など存在するかどうかは疑問だし,実際難しい。変に自由にして,収拾がつかなくなる可能性も否定できず。
他の教科の先生方は,今までにない,そういった難しいことを要求されている。
語学の先生だけが,スキルに頼っていていいのだろうか?
日本語で議論できない人間が,英語で議論することなど夢のまた夢の出来事。
自身に言いたいことのない人に,何を主張させることができるのだろう。
無理やりつくる言語活動の活発化は,教師の間にそれが許されない中では,絵にかいた餅。
まずは,教師間の自由で闊達な意見交換,議論がなされることが先決ではないか?
クリティカル・シンキング,リーディング,スピーキング,ライティングを,実行できている教師がどれくらいいるのだろうか?本当に実行している人は,一握りだ。
教師自身が実行できないなら,何をどうやって教えることができるのだろう。
少なくとも私はそう思っているの。
彼らには,モデルが必要よ。
私にはモデルがいたし,モデルがいる。それを伝えていけばいいのだわ。
いいのだわ。