『コミュニケーションは「すべての人はわかりあえること」の上に成り立っている』という話 | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

この方の文章は大変興味深く為になる。


人はそれぞれ拒絶するというコミュニケーション

Keitaro-newsより

http://d.hatena.ne.jp/keitaro2272/20100321/1269127295#


(以下コピー)

『絶対的な価値など存在しない』という言葉に納得される方は多いと思います。この考え方は裏を返せば『相対的な価値は存在する』ということです。相対的な価値とは個々人の価値を認めるということです。そうであるならば、個々の価値がぶつかり合ったときに平行線で答えは出なくなってしまった場合、コミュニケーションには意味がない事になります。


「人それぞれ」という言葉は一見すると人の意見を認める発言に見えますが、実は人の意見を拒絶する考え方です。意見は人それぞれに持っていてもなんら不思議ではありませんが、その意見というものはコミュニケートしている人の間に共通して存在しなければならないからです。相互に納得できる部分を摺り合わせていくことをなしていかなければ意見が意味を持たないのです。共通して納得できる新しい部分を創造し、共有していけばコミュニケーションは成立させることはできます。


「人それぞれ」という考え方自体が間違いではありません。「人それぞれ」で終わらせることというのが誤りなのです。「人それぞれ」が終着点なのではなく、出発点として、少しでも共有できることを増やしていく行為がまさにコミュニケーションする意味なのです。


人はコミュニケーションすることで得られる経験が増えることはご存知だと思います。また、共有部分が少ないために価値観のぶつかり合いが起こりお互いの価値を失ったということは多くの歴史から学ぶところです。排他的な『人それぞれ』は、お互いにとってデメリットしか残しません。


(コメント)

すべての人は分かり合えるという楽観的な考えを持つに至るまでの過程がない人には,不可能と思われることだ。


すなわち,人を根本的に信じることのできることが出来ない人間にとって,人との楽観的なコミュニケーションは出来ないこととなる。


世の中はあなたが信じていくに十分安全であるし,あなたの言うことは受け入れられる。という安心感のないところでは,自身の意見を声に出して述べることはできない。


声をあげない人間はむしろやましいところがあるからだとは考えれないか?


コミュニケーションをとろうとする人間が犯罪者である場合,被害者にとって相手の言い分は到底理解しがたいものであり,お互いを知ろうとする姿勢など持つ事など不要になる。


しかしながら,そういう中にあっても会話を意図的に都合の良いように断絶される人間の行き場のない怒りと言ったらありえない。


表面上にうまくやっているように見えても,事実は深く残る。

絶対に逃れられない。


自身の意見を表に出して批判をされているにも関わらず,聞く耳を持たず言い続ける人の心境というものは何なのだろう?内心はビクビクしているのかしら?悪いと分っているから黙るのかしら?


万民が変だと気づいているのに,言い続ける人の心境はなんなんだろう。

コミュニケーションが苦手な人物とは,他人からの声を無視し続ける人だと私も思う。


非常に不快で,迷惑を受けた人間は知っている。ものを言えないように力で押さえつけ,被告にとって一見平和そうで静寂に思われる中にあっても,確実に取り返しのつかない,以前にも増していく事態の悪化の大きさを。

ただ本人のみが知らないだけなのである。

ニコラエ・チャウシェスク夫婦の末路なんかと同じ。

力で押さえつけようとすればするほど,末路は悲惨。


追い込まれた人間の保身にまわった言い訳する女々しい声を,

世界の裏に居ても何十年経っても,たとえ命を落としたとしても聞くだろう。


絶対に消えないし,絶対に許さない。


世間が受け入れると信じて私も言い続ける。おかしいものはおかしいと言い続ける。世間は良心的な人を見捨てない。絶対に見捨てない。


誰が見ていなくても,誰から評価されなくても,私は君達に誇れる生き方を選ぶ。