自分のあり様(抱える事情や心情)を伝えたい『人』と,伝えるための『言葉』を失い、同時に『キレ』そうな自分を収めてくれる心の中の人までも失い始めた子供たち。
子供たちを取り巻く状況は、さらに、この10年以上も前から厳しいものになっていった。
【(まるで・・・あたかも・・・かのような)仮想世界】うれしさや怒りや寂しさといった自分の中で湧き上がってくるものを,言葉に包んで人に伝える代わりに,ディスプレー(2次元)のキャラクターに託す。託されたキャラクターは,自分(現実)よりもはるかな力(万能感)で相手を,否,世の中を征服してしまう。(まるで~になって,あたかも~したかのような)仮想世界の始まりである。
それは,思うようにはならない現実という厳しい地上から見上げた空に思い描いた「空想(ファンタジー)という自分やお互いを支え合うエネルギー」とは異なる。
仮想世界は,まるで頭の中の世界が現実に同化し,本当の現実(?)が遠のいていく,錯覚あるいは倒錯の世界である。
そこでは,「生」「性愛」「死」といった生々しい世界は,いつでもリセットできるものとなる。
自分たちを「神」と思い込んだ若者たちのサリン事件,後を追うがごとく中学生の酒鬼薔薇事件。その後,ある小学生が,下校時に角棒で同級生を殴り,返り血を浴びてやっと夢から覚めたように震えながら大泣きした事件。「本当にゲームのように血が出て,人が死ぬのか試したかった」と言った衝撃的なこの子の言葉は,日本中を駆け巡った。このように,仮想世界の現実への侵食は留まるところを知らず,現実で試したいという衝動に火をつけ,ついに現実という世界は決壊し始めた。
【つながっているという錯覚(携帯・メールの世界)】
携帯電話が発売開始となったのは,1980年代である。今となっては,これが無ければ,仕事はもとより友達や家族との付き合いさえもできないといった状況となった。
いつでも,どこでも,時と場所を飛び越えて,声と文字を頼りにお互いの世界へ行ったり来たりできるような気になってしまう。
実際には,会ってもわかり難い相手の深い心情を,携帯・メールという道具で確かめることに躍起になっていく。
日々の不安や悩みは,自分の「こころ」の器で抱え熟されることもなく,深夜であろうが他の人の器に垂れ流されていく。そして,お互いにつながりあっているかのような錯覚の中で,常につながっていないと落ち着けないという新たな不安が作り出されていく。相手の着信履歴にある自分の扱われ方しだいで,簡単に相手との関係が揺らいでしまう時代である。
一家に一台の黒電話の頃は,「今すぐにでも会って話がしたい・・・悩みを聞いてほしい」と思っても,5分以上かければ小言を言われ,会うには門限で閉ざされ,悶々といつ眠ったか分からない夜を幾度も迎えた。おかげで「仕方が無い」と折り合いをつけたり,簡単に相手のことを決め付けて思い込んだりはしない力も身につけることができた。