『甘い生活(la dolce vita)』
監督:フェデリコ・フェリーニ
この映画はねぇ・・・。
切ない!!

全然、「甘い生活」じゃないね。

フェデリコ・フェリーニの作品は、
オープニングが印象的なものが多いよね。
『甘い生活』ではヘリコプターに吊られたキリストの像が、
ローマの上空を飛ぶ。


1960年代に個人的にヘリコプターで空中散歩をするってとこが、
主人公・マルチェッロの豪華な生活を容易に連想させる。

最初は誰もが羨むようなローマでの華やかな生活を映し出しているが、
少しずつマルチェッロの不安や、
思い通りにならない現実があらわになる。


本当は作家として生きていきたかったが、
ゴシップ記者として働くしかないマルチェッロの現実。

大富豪の娘は本当の愛なんて求めてないくせに、
自分に本気のフリをする。
結局、上流社会の人間の考えは理解しきれない。

恋人のエンマは嫉妬のあまり、自殺未遂をする。
「私は家に居るわ、あなたの為に食事を作って。
ずっと家で待ってる。
」
本当は退屈で、重いだけの恋人。
でも別れる勇気もなく、ずるずると今の関係を続ける自分。
大女優・シルヴィアは自由奔放で、
どんなに甘い言葉を使っても自分の手に届く女性じゃない。
でも・・・
自分も、彼女みたいに自由に生きて良いんだ。

彼女が正しいんだ。
そう思った矢先に見るシルヴィアの現実。
自由奔放な彼女も恋人に殴られ泣くような現実を抱えている。

トレヴィの泉で水遊びをする、あの有名なシーンは、
さすがに美しかったね。

あたしもマルチェッロ・マストロヤンニに手を引かれて、
トレヴィの泉の中を歩きたい。


聖母マリアの出現は子供の狂言なのに、

我を忘れて祈り救いを求める大勢の人々。
最初のシーンと、この聖母マリアのシーンで、
神や信仰でさえも作りもののような気さえしてくる。
知的で平和な生活を送る友人のスタイナーは、
突然、子供を道連れに無理心中を図り自殺する。

自分の理想としている人物だったのに。
警察の事情聴取のシーンでマルチェッロは、
こんな風に言う。
「友人でした。
でも、彼のことは・・・何も、知りません。」
友人であっても、本当の苦しみは本人にしか分からない。
スタイナーはマルチェッロの中で、
唯一の光のような存在だった気もする。
彼の助言のおかげで、
夢だった作家への道を進もうとしていた事実もあったし。
スタイナーの死後、仲間同士で
夜を徹して乱痴気騒ぎにあけくれる。

マルチェッロが自暴自棄になっているというよりも、
人生に対して、すごく怒っているように見えた。

夜が明け、乱痴気騒ぎも終わりが近づく。
一人、また一人と舞台を降りる俳優のようにカーテンの向こうに去っていく。
この騒ぎの虚しさ、意味のなさを初めから知っていたかのように。

この映画に登場する人物は、全員が一見、
幸せで人から羨まれる生活をしているように思える。
しかし蓋を開けてみると誰も本当の『甘い生活』なんて送っていない。
ラストシーン。
浜辺の対岸から少女が何かを叫んでいる。

彼女はマルチェッロが作家としての夢を取り戻し始め、
執筆をしようとして訪れた海の家で働く少女だ。
その声は波に消されて彼の耳には届かない。
「分からないよ。聞こえないんだ。」
諦めたように少女に向って言うマルチェッロ。
そして少女に手を振り、
乱痴気騒ぎをした仲間と浜辺を去っていく。
この時のマルチェッロの表情がなんとも言えず、
切ない!!

すごく優しい笑顔なんだけど、
大切な何かを完全に諦めてしまった笑顔。
それでも少女は純粋な笑顔で、
去っていくマルチェッロに小さく手を振る。

そして、去っていくマルチェッロを輝くような笑顔で見つめる。
この少女は希望とか、
そういうものの象徴として描かれたような気がする。
彼女はマルチェッロといつか必ず再会する事を知っているから、
まっすぐに微笑んでマルチェッロに手を振っていたのではないかな。
ちなみに波の音にかき消された少女の口を読むと
ioとcamminataっぽいのとinsiemeに思えたけど。
・・・camminataは文法的に変だね。
でもcamminareの活用を言ってたと思う。
「私と一緒に歩きましょう。」
って言ってるんだろうね。
多分、このシーンがなかったら救いがない
「退廃」「無気力」「虚しさ」を描いた映画になるけど、
このシーンがあることで、映画全体の意味が変わったような気がした。
素晴らしいラストシーンだった。


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