伊那谷ではありませんが、
茅野市が縄文プロジェクトを立ち上げたみたいです。
http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1449726030236/index.html
しばらく注目したいと思います。

茅野市には「尖石縄文考古館」という立派な施設があります。
そこに収蔵されている棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」は
日本の縄文文化を代表する珠玉の土偶であり、
国宝だけの価値がある素晴らしい芸術作品です。
「仮面の女神」も近年国宝に指定されましたし、
茅野市は県内の自治体の中でも、
突出して縄文の至宝がウジャウジャ出てくる土地です。
これを生かさずして茅野市の将来はない!
生かせないんだったらとっとと諏訪市と一緒になれ!と言いたい。
昨年開催されたイベントが「あれあれ?」でしたので、
今後はもっと縄文を掘り下げたイベントや、
継続的な活動で市民や周辺住民をどんどん巻き込み、
「縄文のまち」茅野を全国に発信しつつ、
縄文の哲学や魂を、茅野市のまちづくりに生かしてほしいと思います。

伊那谷にも国宝級の遺物があるに越したことはないですし、
実際には南箕輪村には重文級の遺物があるんですが、
縄文は遺物そのものが重要ではなく、
むしろその遺物の背景となった縄文の哲学や魂であり、
それらに根ざした生活を掘り下げて考えることが、
これからの社会において重要になると私は思っています。
もちろん研究者の立場として学術的に考察することも大切ですが、
住民レベルで当時の生活を考えてみることも大切ではないかと思います。

例えば「焚火や炭火を見ていると落ち着く」という人が結構いますよね。
バーベキューや火鉢などの炭火をみながらよもやま話をしたり、
ひとりで火鉢の炭に当たりながら物思いにふける人も結構いるわけです。
安い薪ストーブは火が見えないからって、
わざわざ窓を石英ガラスに交換する人もいます。
なぜなのか…と思います。
別に火なんか見なくてもいいし、
普段は火なんか見なくても考え事をしているんだけど、
なぜか焚火や炭火を見ていると落ち着いたりするんです。

これはあくまで私見…ですが、
古く縄文から人々は、
調理をしたり、器などの道具を作るために、
なくてはならない火という特別な存在に対して、
ざまざまな思いを巡らせてきたはずで、
時に幻覚や夢を火の中に見たり、
火そのものを神聖な存在と感じていたように想像するんです。
そうした太古の記憶は、
現代で生活する人々のDNAにもきっちり刻まれているはずで、
だからこそ普段はIHやオール電化など、
全く直火が存在しない生活に慣れていても、
いざ火を見ると落ち着いたり、
心躍ったりするんだと思うんです。

私の母の実家は田舎の農家で、
昭和40年代まで茅葺きの家でした。
土間に接して大きな囲炉裏がありました。
囲炉裏では家族たちが集い食事をし話をしていました。
子どもだった私は大人たちの会話を聞きながら、
囲炉裏の前で寝そべっていた「ポポ」という名前の、
ヨークシャーテリアと遊んでいましたが、
今思えば昭和40年代の田舎の、
茅葺き農家の囲炉裏端なんかに、
なぜヨークシャーテリアみたいな、
六本木の高層マンションで飼われているような犬がいたのか…。
しかも「タロウ」じゃなく「ポポ」って…。
いや、昔の田舎の大きな農家は結構裕福だったんですよ。
そこではヨークシャーテリアのみならず、
馬も飼ってましたよ。
馬を飼って自由に乗り回す行為は、
「イタリアの跳ね馬」を買って自由に乗り回すのと、
コストと技術面でそう変わらないそうですからね。
つまりは英国の貴族的暮らしだったのでしょう。
暖炉ではなく囲炉裏だったけれど。

まぁ暖炉も囲炉裏も、
直火にあたりながら生活することに変わりはありませんが、
昔は焚火や炭火が生活の場に常に存在していたわけです。
昨今、IHや電化になりましたが、
電磁波や原発などのリスクが言われております。
私自身は電磁波に対して鈍感なようで、
特にリスクを感じていませんが、
中には電磁波に敏感な人もいるでしょう。
原発については大きな危惧を抱いておりますが、
電気なしでは今の生活が成立しない以上、
原発由来を理由に電気というエネルギーを否定はできません。
ただ、最近強く感じることは、
電力というエネルギーにちょっと頼りすぎというか、
ちょっとバランスが悪いのではないかな…と思うのです。

とりあえず現代の日常生活において、
直火を見ながら生活する必然性はないけれど、
いざ火を見ると落ち着く…ならば、
時に火を見たほうがいいのではと思います。
ストレス解消、癒し…それを今の人間のDNAが求めているならば…。