日経新聞でのインタビュー領空侵犯での「企業人は武士道より商人道を」に対する
「ちょっとまった領空侵犯(日経ネットプラス」)における議論より~
以下転載
◇小野晋也(武士道協会専務理事、衆院議員)
武士道精神を企業人に当てはめ、「滅私奉公で上司の言うことに追従するので不祥事がなくならない」という論法だとすれば賛成できない。武士道のすべてを知らずに批判している感がある。
そもそも、武士道には「諫言(かんげん)」の精神がある。意見して受け入れられなければ腹を切る(今なら、身の処し方は色々あるが)。間違っている上司へのむやみな滅私奉公は武士道から外れている。
武士道の定義は難しい。現代に武士道を体現できる人はそうはいない。武士道を説ける人も同様だ。メディアも社会も教育現場でも武士道に深く触れることはない。藤原正彦氏が「国家の品格」で書いた武士道も部分的なもの。新渡戸稲造氏の「武士道」も外国人向けの解説書で深い部分について踏み込んでいない。
あるいは人ごとに定義があるのかもしれない。以前、ある経営者に「武士道を一言で説明してくれ」と問われ、「人が最も輝ける生き方が武士道だ」と答えた。
要するに暴走が止まらない企業には「諫言」できる人がいなかったということにつきる。
中小企業のほとんどがワンマン経営だという事実は確かでも、
その中でしっかりと成長しつづけている企業には「諫言」できる参謀が必ずいる。
■流されがちな生き方が問題
私はこう考える。武士道には「仁・義・礼・智・信・忠・孝」に代表される人としての理想の教えがある。同時に人にとって最も厳しい現実である「死」を日常に感じていた。明日死ぬかもしれない中でも理想を追う。現代人も「いかに真剣に生きるか」をもっと考えるべきだと思う。
だが現代人は地に根を張れずにいる。世論に簡単に流される。会社の中では有力な人の言うことに流され、よって立つ所がない。それは人のあるべき姿ではない。
例えば政治家や教師がなぜ尊敬されなくなったのか。それは、思想が生涯を貫く生き方をしていないからだ。社会とかかわりを持てと教え続けた教師が、定年退職後は隠居生活を楽しんで社会とかかわりを持たなくなる。政治家もポストをもらえばそのポストの立場で発言し、極端な場合は選挙前と後で言うことが違ってくる。だから尊敬されなくなる。
私も自分自身はどうかと問いかけている。十数年前から、政治家として守るべき7つの条件を挙げて活動している。自ら破ったときは、政治家を退く覚悟でいる。
■どの「道」も真理を求める
人は生きるための指針を求める。その意味では、武士道も商人道も大きな違いはない。「道」は人間が文明を築く以前から存在する真理だと考えている。
私が武士道に本格的にかかわるようになったのは、人間学に関する検定制度の創設に携わったときだ。同じ活動をするNPO(非営利組織)法人・武士道協会(塩川正十郎理事長)が立ち上がると聞き、目的が同じならばと協会に合流した。
現代人は皆、世の中の何かがおかしいと思っている。心の問題が大きいとも感じている。しかし宗教も明確に方向を示せないし、政治家は心の問題に立ち入らないようにしてきた。私は武士道を追い求めることで答えを出せないか考えている。
組織の意思統一を優先させればトップダウンによる意思決定が望ましいことには
異論はない。
問題は情報の現場から離れているトップが必要な情報をどのようにくみ上げて、
的確に状況を把握し、適切な判断を行いえるかということ。
全く問題ございませんと胸を張って言える経営者はよほどの自信家かノーテンキかどちらかだろう。
トップが判断を誤りそうになった時に情報の現場により近い立場にいるものが
諫言すべき場面も必ず出てくる。
~そこで、合戦の道理としてこちらに十分の勝ちめのあるときは、主君が戦ってはならないといっても、
むりにおしきって戦うのが宜しく、(逆に)合戦の道理として勝てないときは、主君がぜひとも戦えと
いっても、戦わないのが宜しい。だから、功名を求めないで(進むべきときに)進み、罪にふれることをも
恐れないで(退くべき時に)退いて、ひたすら人民を大切にしたうえで、主君の利益にも合うという
将軍は、国家の宝である。
~「孫子」 地形篇第十 三より~