言葉を意識する。というテーマで書いていこうと思います。
哲学者の井筒氏はかつて、
言語によって伝えられる「言葉」とは別に、
その人の態度・存在そのものから言葉の意味を越えて伝わるそのようなことを「コトバ」と表現したと言われている。
会話とは、相手とのキャッチボールであるし、自分自身のことばを意識して日常生活をしている人は少ないだろう。
だけど、少し意識をするだけで、周囲との関わり方や自分の心の持ちようは変わってくる。
言葉とは、時として凶器にもなるし、
幸福感を届けられる良薬にもなる。
現代に生きる者だからこそ、言葉について意識を向けることは重要なのではないか。
常にそう考えている。
そもそも、言葉とは自分ひとりで成立をするものではない。
冒頭でも書いたが、他者がいて初めて成立する”もの”なんだよね。
変なことを書くが、言葉とは2通りの発し方があると思っている。
まず、1つ目は「自分の言いたいことを発する」自己発信型の言葉。
この言葉は自分の考えを相手に伝わるように理論立てて伝えるということ。
なんだか、書いていて少し無機質な感じがする。
もちろん、社会を生き抜いていく上で、自分の意見を相手に伝えていく行為は必要だし、しなければ「意思のない」人間として受け取られることがある。
ただ、よく考えてみて欲しい。
言葉を発する人間が偉い。という価値観だけしか世の中なのであれば、全員がおしゃべりになっているはずである。
しかし、この世の中には、しゃべることが苦手だから、他者と喋らない人だって多い。しかも、結果を大いに残している人間は多い。
一概に、しゃべる人間=仕事ができて、多くの成果を残す。というわけでもないわけだ。
だけど、優位に物事を進めていくには、言葉は必要であると考えている。
文明が発達したのも、人間の世紀の発見は「言葉」をつくったことだ。とも言われているくらいだからね。
そして、もう一つの言葉とは「ことば」と表現する方。
ひらがなで書くと、なんだか温かみを感じるように、その人そのものの考え方や態度から発せられることば。
相手を思いやる気持ちが入っているようにも感じられる。
相手が居てこその会話の成立と書いたが、「ことば」で捉えられる方には、相手の考えを踏まえて寄り添いことばを伝え、受け取る。
ことばが相手に届いてから、会話が補完される関係。
相手を思いやる言葉遣いをしていく必要があるし、より豊かにことばを使い、幸せに生きていくには「ことば」を重視して日々を生きていたいと思う。
ことばは、深く取り扱い要注意(いい意味でも)ということを、改めて肝に銘じて。