あれやこれや・趣味の部屋
根本陸男:クラウン最終年から西武最初の3年の計4年監督を務め、
管理部長として戦力補強にも尽力した根本陸男(のちにダイエーでも監督を2年務め、フロント入り)。
昭和40年代に広島でも根本監督、広岡コーチ、関根コーチと豪華な首脳陣時代が・・・。
99年4月にホテルで食事を済ませた後、部屋に戻り具合が悪くなり急性心筋梗塞で他界。

秋山幸二:西武で13年、ダイエーで9年。入団4年目の1984年に7番三塁手で開幕スタメン(4番はこの年限りで引退した田淵)。
西武では1985年から最後の1993年まで9年連続30本塁打。1986年まで三塁手だった。

87年、俊足&強肩の持ち味を目いっぱい生かそうと考えた首脳陣がセンターにコンバートし(同時に背番号を1に)、不動の中堅手となる。

92年オフ、西武を離れダイエーの監督に就任した根本がトレードを持ちかけるが、森の著書によると「根本さんが仕掛けたと騒がれてしまう」との理由で1年の冷却期間を置いたとのこと。

トレードが発表された直後のプロ野球ニュースでは、豊田泰光が「今だから言えるけど(93年の)夏ごろに西武球場で森監督と話していたら”バントもできないし使いづらい”と漏らしていたのよ」とコメント。

ダイエー移籍後は腰の具合も芳しくなく、本塁打数は移籍初年度の24本が最高。
以降,21,9、12,10,12,5,11,5本と減少。99年、強肩を生かす意味も含め右翼手にコンバート。


森祇晶:1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝、うち6度の日本一。
横浜ではフロントに現場介入された上に、ぬるま湯体質のチームには自分の野球が浸透せず、2年目の途中で更迭され、彼の球歴に傷をつけてしまう監督生活であった。

仰木彬:1988年~1992年近鉄バファローズで指揮を執る。89年森政権でのライオンズに唯一土をつけた監督。
参謀・中西太とタッグを組み、大味だが魅力的な野球で現在のパ・リーグ人気へ貢献した一人。
1994年~2001年までオリックスブルーウェーブ監督、2005年合併後のオリックスバファローズ(通称:オリ近)監督を引き受けるも癌に蝕まれ試合中にベンチ裏で休養をとることも・・・。
注射の後を気にしてか夏場も長袖を着用していた。



西武球場で最終戦を終えた後レフトのファンに「ありがとう、本当ありがとう」と数度頭を下げ、そのままセンターから休場外のハイヤーに乗り込んだ。
それを見たときにかなり具合が悪く監督を辞するのを感じた。


最終戦の翌日退任会見、そこから3カ月足らずで他界。
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根本が監督に就任した当時のホークスの主力選手。

村田勝喜:弱小ダイエー投手陣でエース格。91年6月、西武渡辺智との投げ合いで1-0完封(1点は門田のタイムリー)。秋山・渡辺智・内山との3対3トレードで94年から西武へ。

湯上谷宏:エラーも多かったが南海の野手陣では佐々木、門田、山本和範、レギュラーになる前の岸川とチームに射した数少ない光。

吉永幸一郎:柔軟性とパワーを兼ね備え、故障するまで肩もそこそこ良かった捕手。2001年~巨人。

井上祐二:画像左下:晩年の南海抑えのエース。

佐々木誠:村田、橋本とともにトレードで94年から西武へ。95年の新春トークショーで少年時代は南海ファンであったことを告白。聞き手の中川充四郎が「でも憧れていたのと実際入ってみて中を見るとあまりいいものじゃないでしょ?違うでしょ?」と促され、「嫌なところだった」と臭わすコメントを残した。

(画像右・左)ジョージ・ライト(南海最後の1988年、トニー・バナザードとともに加入。打撃が今一つで1年で解雇。身売りしたダイエーホークス5年目のシーズン、根本監督曰く「福岡ドームの守備に必要」とのことで再雇用されるも1年で解雇。)
同年初観戦の4月13日、ファイターズ勝利目前の3対2の場面で武田から同点の本塁打。
延長で山本がタイムリー3対6で負けた。

(画像右・中)バイロン・リー・タネル(田淵政権下の1991年途中、ホークス投手陣に加入。球威は無いものの制球力で打ち取るタイプの投手として6勝を挙げ重宝されたが、92,93年の2年で4勝17敗。93年はほとんど出番がなかった印象。)

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松永浩美:ダイエーへ移籍した94年はレギュラーとして活躍したものの、翌年から打率が低迷。

97年、井口(当時・遊撃手)の入団や小久保が三塁へコンバートされ、出番の激減により
オフに退団し、オークランドアスレチックスのテストを受けるも不合格となってしまった。

藤本博史:90年に就任した田淵監督曰く「体つきに似合わず、バントもエンドランもチーム一器用」。
主に三塁・一塁を守っていたが、選手層の厚くなった94年の根本政権下では打撃優先の布陣を敷いたためセカンドで起用された。根本監督からは「正面の打球だけ処理してくれればいい」との事だった。

翌95年の開幕戦(レフトスタンドで観戦)、1回表にミッチェルが放った満塁本塁打がクローズアップされているが藤本も本塁打を放ち、西武の開幕投手郭泰源から一挙7得点。
そのリードを西武から移籍の工藤が守れず4回もたずに8失点KO。
8対10で迎えた9回、吉永の飛球を西武の中堅手・佐々木が視界に入ったのか右翼手・ジャクソンが後逸。
そのおかげで走者を置き、ニ死ながら藤本に打席が回り、潮崎から起死回生の(この日2本目)同点・二点本塁打を放つ。
延長に入りケビン・ライマーの犠牲フライで勝ち越したダイエーが11対10で勝利した。
※この日、ここにも載せている似顔絵バットのトラックスラーVerを持っている女性ファンがいたので、この種のメガホンは少なくとも94年には出ていたことになる。
(当時、シールは100円。メガホンは550円か650円。)

※似顔絵シール秋山、浜名、山本のみ店頭で確認済み。

尚、藤本は98年開幕後にオリックスへトレードされたため、福岡移転後のホークス初優勝(99年)を味わえなかった。