6月のスカステは午前中ベルばら祭りで、平日はまだ(仕事が)通常シフトでなく、自宅待機な私としましては、ほんま、マジやめて💢という感じなんですけど…。←仕方なくDVDかける時間になりましたさ。
すっごい前の観劇記でお茶濁し5つめに、あえてベルばらひっぱり出してきました(笑)
ええと、以前からのフォロワーさま方はびっくりされるかもですけど、一寸ほめてます(爆)
当時は、(良い作品になったのは)演出助手の圭先生(鈴木圭先生)の手腕だろうと噂が立ったくらい、話題になりましたね(笑)
「植爺作品」の期待値のハードルが低くなってたのかもと思ったり(笑)
まぁ、何度か見たらツッコミどころ満載で、手放しに…と行かないところが植爺(植田紳爾先生)らしいとこですけどね。

実は私は、「ベルばら」で宝塚にハマッたクチだ。
当時雪組のトップかりさん(杜けあき・もりけあき)のアンドレでハマったクチだ。
学生演劇にどっぷり浸かっていた私には、不条理劇や、暗ーい心理劇に慣れていたので、宝塚のキラビヤカな舞台に目がチカチカしたものだ。(初観劇の月組「ME AND MY GIRL」がなければ観にいかなかっただろうけど)
もう、カルチャーショックってこういう事なんだと思った。
あの時、あの「ベルサイユのばら~アンドレとオスカル編~」に出逢ってなければ今の私はあり得ないわけだし、こんなに毎日幸せな気分で過ごせていたか解らない。
それくらい衝撃も感動も強かった作品だ。
だからと言って、脚本をいいと思ったことは未だかつてない。
言い切ろう。
ない。
初めて見たその「アンドレオスカル編」で、ベルばらを生まれて初めて知った私は、最後までアンドレとロザリーがひっつくのだと信じたくらいなのだから。
まずいだろ・・・みたいな。
後で違うと知ったときの驚きは、筆舌に尽くし難い。
その時既に「脚本に問題かあるのでは」と思っていたのだから。
それでも毎回、早朝の並び(チケット発売日)に始発に乗って向かったり、電話をかけまくってチケットを入手し、必ず観劇していたのは、生徒達の愛情による素晴らしい「様式美」を見たいが為、キラビヤカナ世界に浸りたいが為だった。
心の底で「・・・何とかならんのか、この脚本は・・・。」と舌打ちしながら。
宝塚を知らない友人知人達に、「一度ベルばらを観てみたい」と頼まれても、
「絶対お勧めできないから、止めて。あれがヅカのレベルなんて思われたくない」と拒み続けていた。
今回も、そうだ。
前回の花組、雪組の外伝は破壊的にまずい代物だった。
脚本的に良かったのは、着眼点だけだと思う。
同人やっていた人間なら、主役以外のキャラ使ってストーリーを作るのなんか当たり前の事だ。
いつもいつも主要キャラだけ使って大芝居みせるだけなんて、つまらないし、遠からず飽きられる。
ここ数年、「ドル箱」のはずの「ベルばら」をあれだけやりまくってたんだ。
この全ツでそのままやったなら、絶対に客は入らない。
劇団自ら「ドル箱」をどぶに捨てる様なモノだったろう。
だから、スピンオフでも何でも、「主人公が違う、別の切り口」の作品が必要だった。
その判断は正しかったと思う。
比較的掘り下げて描かれていない(てか、殆ど?)キャラを使って、新たなストーリーを構築したら、そりゃ「面白そうだ」ってなるさ。
・・・植爺じゃなかったらなぁ・・・。
雪組の「ベルナール編」も、花組の「アラン編」も、結局的はずれなポイントの絞り方で、必要であろうシーンを悉くカットしたあげく、「人間的にいい人」となるはずが、「ちょっとヤバイ人(二股かけたり、妄想癖だったり)」になってしまっていたし。
テーマもキャラもあった物じゃない。
何が言いたかったのって話になってて、「ああ、これで全国廻ってしまうのか」と愕然としたモノだ。
今回の、星組「ベルナール編」も絶対恐ろしいことになると思っていた。
キャスト発表があって、退団発表があって、こんな大事な時なのに、役者が解釈に苦しみ、観客が理解に苦しむホンが来るだろうと。
開き直って「涼みんのオスカル観られたらそれでいい」とまで思っていた。
ところが、今までのは何だったんだと言うほどの、作品が出て来た。
もちろん、しつこいほどの繰り返し歌詞(「永遠に輝けー~」のリピート、4回はいらないでしょ)とか、大仰に出て来た割に一言で暗転な演出(オスカルよ、何しに出て来たのかと思ったよ)とか、無駄な異口同音台詞(ご婦人方の「ないない」「ないない」には、初めの方だった事もあって、「ああ、またか」とがっかりした)とか、もういいだろう程の説明台詞(ジャルぱぱの、「男の子が欲しかったのに云々」、絶対もういらない。他の言い方でも説明できるはず。てか、書き言葉台詞やめたって。言いにくそうだし聞きづらい)とか、絶対使い方間違っているぞな日本語(ベルナールが出来る仕事は、革命の真実を伝えることで、それは、筆でじゃないだろうペンでだろう)とか。
突っ込みだしたら枚挙に遑がないけど。
それでも、キャラクターがちゃんと息づいている、時の流れが、気持ちの流れが手に取るようにわかる。
主役二人がちゃんと主役として成り立ち、尚かつ脇のキャラクター達がリアルに生きている。
そんな、ぶっちゃけ当たり前の事が(今までなかったからね)、ちゃんと出来ている芝居になっていた。
ベルナールと言えば、原作中でも近衛隊時代のオスカルと、黒い騎士として追い追われるモノとして出逢い、アンドレを傷付けたことで、彼女の中に於けるアンドレの位置を考えさせ、彼女に貴族の、人々を踏みつけにした上の享楽と堕落を知らせ、後に衛兵隊に志願させ、革命に身を投じるまでにした人だ。
そして、オスカルが、「大切な妹」として愛していたロザリーをくれてやった男だ。
元の主役ともこれだけ重要な絡みがある上に、元々貴族の私生児で、母は夫に捨てられたことを苦に、無理心中をはかり死亡。自分だけが生き残った彼は、貴族を憎悪して育ち、後に貴族の敗退と堕落を訴える新聞記者になったという、きっちりとしたキャラ設定がある。
今回は、驚くことに、その辺りが忠実にそしてそれ以上な描かれ方をしているのだ。
つまり、オスカルとベルナールとの関係がきっちりはっきり描かれているのだ。
前2作のオスカルは、「説明シーン、説明台詞」に終始して、本当に出す必要があったのかさえ不明だったのだけど、今回は、そうはいかない。
ベルナールにとっても、オスカルという人間は、「憎悪の対象」でしかなかった唾棄すべき貴族の中の、一筋の光明だ。そして、生涯の伴侶、ロザリーと出逢わせ、結びつけてくれた人物だ。
描かないわけには、カットするわけにはいかない。
貴族の享楽ぶりを逆手に取り、金品を盗んで市民に分け与えていた「黒い騎士」こと、ベルナール。
当時はまだ、「王と王妃、そして宮廷を護ることこそが国を護ること」だと信じていたオスカルが、宮殿の舞踏会で出逢う。
盗難の犯人は「黒い騎士」だと判断したオスカルが、変装を見破り、つかまえる。
だが、そもそも宮殿内にそのような賊が入ったと言うことだけで、オスカルの「近衛隊長」としての責任問題となる。
貴婦人達は、それを阻止すべく、「盗難は無かったこと」として、訴えを取り下げてしまう。
・・・オスカルに対する婦人達、そして宮廷の中でのオスカルの立ち位置がよく分かる場面だ。
つまり、オスカルは、「自分たちの側で凛々しく立っていさえすればいい」と思われているのだ。
仕事の能力なんて二の次で。
オスカルは、正義感に溢れ一生懸命職務を全うしようとしている。
父にそう育てられたとはいえ、自分の意思で男装し、女性では出来ない仕事を歯を食いしばって頑張っている。
だが、貴族たちは見ていない。
そんなものをオスカルには求めていないのだ。
漠然とした不安や焦燥感はあったろう。
だからこそ、捕らえたベルナールの口から「王宮の飾り人形」と言われ、「96パーセントの国民に目を向けろ」と言われて考え込んだのだ。
ここでベルナールを死なせてはならないと思ったのだろう。
自分の今までの価値観を、常識をそして、不安を打ち破ってくれる存在だと感じたのかも知れない。
彼との出逢いは、「人間として」の大きなターニングポイントになったはずだ。
そして、ベルナールも彼女のそんな姿を目の当たりにして、貴族と言う物に対する考え方を変えていく。
ところで、オスカルはどこまでベルナールの事をわかっていだだろう。
ロザリーと顔見知りだったのは、初めて聞いた風だったけど、知っていたのかもしれない。
屋敷に連れ帰り、二人が驚いてるのを楽しんでいる風な顔で眺めていたから。
人間的に信頼できるだろうと判断したとはいえ、か弱い少女に万が一にも間違いがあってはならない。
ましてやロザリーは大切な妹とも思う少女だ。
それなりに確信がなければ出来ない事だと思うから。
そしてある意味、冷静に二人を見ていたんだと思う。
ロザリーに対する態度や口調。
彼に対するロザリーの行動や言葉。
そして、革命家としての彼の信念を。
黒い騎士が盗んだ武器を「買い取った」事にして罪を清算させ、盗賊を止める約束をさせる。
一緒にパリに行き、フィルターのかかっていない目で国の現状を見たとき、オスカルは二人を街に帰す。
暖かな愛を育んでいる二人の為に、そしてこれから訪れる動乱の渦中で真実を見極めてもらうために。
オスカルは、ベルナールにそれを託したかったんだろう。
そして自らは、衛兵隊に、そして革命派として戦いに身を投じる。
この一連の流れの中に、残念ながらアンドレはいらない。
オスカルが自分一人で悩み、決めなければならない事だったから。
アンドレは、平民だから。
結局オスカルの苦悩を本当のところでは理解できないはずだから。
だから、アンドレの出番は極めて少ない。
プログラムに載っている両目あり、式服着たおなじみの姿なんて、ラストの紗幕の向こうだけだったし。
ジャルジェ家の使用人として、祖母マロングラッセと毎日気をもんで過ごす姿と、片目になったことでオスカルの役に立つどころか足手まといになってしまったと苦悩する姿位の量だ。
オスカル無しには生きて行けないアンドレモード全開だ。
オスカルがアンドレに頼っているのではなく、「頼ってあげている」ように見えた。あぁでも、そうじゃないな。依存の関係だな。
だから、パリから戻って来たオスカルに相談せずに出たことを詫びられ、頼っていたことへの感謝とこれからも頼むと言われ、それまでのモヤモヤが霧散したかのように、照れ笑いを浮かべながら「もういい」と言ったんだろう。
ちょうどこのくだりが、本編の今宵一夜辺りになると思んだけど、旨いことエッセンスだけ取ったなぁと本当に感心した。
全くカットされては、アンドレ出した意味がない。
オスカルが唯一心を許し、兄妹のように、半身の様に寄り添っている男性としては、出す必要があるから。
一人で決めた事を実行するとき、優しく背中を押してくれる人だから。
だから、これでちょうどよかったと思う。
しいちゃん(立樹遥・たつきよう)は大きい人だからこんな役がよく似合う。
しかし、あのパリから帰ったその日のうちに(それも直後だろ?)、ベルナールとロザリー帰すってすごいよな、オスカル(笑)
それも「目立たないように、早く」とか言ってるのに。
何度も馬車出入りしたら目立つだろ(笑)
とにかく、ベルナールとロザリーは、パリに、市民の中に戻って行く。
そして、革命家、ロベスピエールらと一緒になって活動する。
この間にも、オスカルは、ロザリー通じて、ベルナールと交流していたから、現実を目の当たりにして、自分の正義に忠実に、正直に戦おうと決心する訳だ。
そのオスカルの決意を間近でベルナールは「貴族にもこんな奴がいるんだ」と嬉しく感じただろう。
いずれ革命の火蓋が落とされ、戦う事になっても、希望を繋げる事が出来るはずだと。
同じフランス人として手を取り合って歩んでいく方法も見いだせるだろうと。
そう、オスカルにとってのベルナール、ベルナールにとってのオスカルという人間は、貴族と平民の間の垣根を取り払う架け橋になるはずだったろう。
だが、オスカルは戦死する。
革命のほんの入り口で。
軍隊の銃撃に晒されながら必死でバスティーユに向かっていたベルナールの元に、オスカル達の近くにいたはずのロザリーが泣きながら駆け込んでくる。
ベルナールは、敵の銃弾が当たり、オスカルが戦死したと知る。
ベルナールの落胆は大きかったろう。ロザリーの悲しみは深かったろう。
しかし、貴族側にもベルナール達を指示する人々が出てくる。
革命は成功した。
ベルナールはロザリーと共に、その後を見続けてきた。
ロベスピエールの台頭と脱落、ナポレオンの出現。
オスカルと共に目指したフランスにするため、誰よりも強い武器、ペンを持って戦う。
アランと知り合い、彼が結果的にナポレオンの下で戦ってきたのも、ずっと見てきた。
そして、ナポレオンが支配者となる時、その目指していたものと違うことに気付き、暗殺を計画する。
アランは元々貴族だけど、没落した下級貴族だったから、市民依りの意見を持ち、オスカルの理想をなんとか現実にしようとしていたから、彼も当然、ナポレオンのやり方には疑問を感じていただろう。
戦災孤児を自邸に引き取り、教育や礼儀を教え、一人で生きていけるように育てる。
未来のフランスのために。
それは、アランなりのオスカルの遺志を継ぐことだったのだろう。
あのやさぐれ男がよくぞここまで立派な人になったものだと、感心してしまう。
本当になんで主役だった花組の「アラン編」でやらなかったのか・・・。
そして、ロザリーとベルナールの十年間を「まだ子供がいない」「なのに男の子が生まれると決めて名前をフランソワにするつもりでいる」という短い台詞で語らせる。
何時までも仲が良くて、ささやかな幸せを望んでいる2人。
オスカルの意思を継いで、フランスの未来をその子に託そうと。
オスカルの遺志を継ぐ。
2人にとって、この言葉の意味の解釈の違いが、ナポレオン暗殺計画ではっきりする。
ベルナールは軌道が逸れた革命の道を力づくで修正しようと自ら関わろうとする。
ロザリーは、それも含め、未来に繋げられるよう、苦しくとも歯を食いしばってなんとしても生きていこうとする。
男と女の違いかな。
アランもロザリーとそう考えていた。
彼女に頼んで、決行の日を一日ずらして知らせ、ベルナールが死なないように手を尽くした。
万が一失敗しても、彼が未来に繋げてくれるだろうと。
そして、自分が育てていた子供達の養育を頼む。
初め、一番信用していたロザリーに裏切られたことに動揺し、絶望していたベルナールが、アランとロザリーのその言葉を理解し、子供を授かったと知り、ペンを持ってこの革命の、フランスの事実を伝えていこうと決心する。
未来を託された。
それこそが自分たちのすべきことだと。それこそが、オスカル達死んでいった人達の遺志なのだと。
初めて「ベルばら」で感動した。
豪華なドレスも宮廷服も、軍服さえ殆ど出てこないこの脚本で、初めて「ベルサイユのばら」という素晴らしい作品に出会えたと思った。
豪華なドレスも軍服もそして、アントワネットやオスカルの愛でさえこの作品のほんの一部分でしかないとさえ思った。
「ベルばら」の本質はここにある。
被支配階級の人々の苦しみ、悲しみ。生きていくことの辛さ、大切さ、そして幸せ。
革命という大きな動乱の渦の中で、人々は、新しい世の中を生み出す苦しみに耐え、未来を信じて生きていこうとする。
その姿を、その生き様を「ベルばら」は訴えているんじゃないかと・・・そう思えてならない。
あの「スカーレットピンパーネル」を、下級生の一人ひとりまでもが全身全霊かけて演じきった星組に、よくぞこのタイミングで廻ってきたと言わねばならない作品だろう。
感動出来てよかった。
今回だめだったらきっと、「宝塚歌劇団」というカンパニーを見限ってしまったかも知れないから。
こんな時期にこんな作品で全国廻らせて、ファンを減らす気か!と。
使える演出家が育ってきているのに、何故大御所にこだわるのかと。
・・・本当によかった。
記憶に、鮮明に、いつまでも。
私はこの作品を忘れない。
初めて出逢った感動と共に。
(2008年11月15日付)