アルベルトは弾かれたようにルドルフを見た。
「いいんじゃないか、アルベルトとならお前も楽しめるだろう」
ヘンリーは、固まった様に動かなかった。
当のルドルフはなにも気づかない。食事を終え、口元を拭いながら、更に続けた。
「アルもずっと働きづめだったしな。休暇がてら、ヘンリーとあちこち周って来るといい」
違う、そうじゃない。ヘンリーがしたかったのは、そう言う事じゃない。
アルベルトは不意に怒りにも似た感情が沸き上がってきた。「ルドルフ様、ヘンリー様はっ…」
「アル!」
思わずそう言いかけたアルベルトを押し留めたのは、ヘンリーの声だった。
捕まれた腕。ヘンリーを見やると、ニッコリ笑う。
「じゃ、決まりだね、アル」
「……」
「お父様、ありがとう!ごちそうさまでしたー」

ヘンリーが部屋を出る。後には、ルドルフとアルベルトの二人が残された。
ルドルフは相変わらず何事もないかのように、紅茶のカップを傾けている。
「この間、ロンドンの朝市に友達と出掛けたんです。勿論先生の許可は取ってたけどね」

朝食の席、ヘンリーのはしゃいだ声が響いていた。朝日差し込む部屋。一人で着くには大きすぎる食卓。
いつもは広すぎると感じる部屋も、彼が居るときは別だ。
ダイニングテーブルに、親子は向かい合いながら座り、アルベルトが給仕する。水入らずの席だ。
「前にも先輩に一度連れていって貰ったことがあるんだ。でも門限もあるし、あまり遠くまで行けなかったけどーー」
幼い好奇心のまま、無邪気に自らの冒険を語る。
「お前は随分、街の生活が合っているようだな」
アルベルトからのグラスを受けながら、ルドルフは、我が子の寄宿舎生活に耳を傾けた。
「若い内に、色々見ておくといい。なあ、アル」
傍らのアルベルトを見て笑った。ルドルフも、今日は随分と楽しげに見えた。アルベルトも、滅多に見られない主人のその姿に顔が綻んでいる。
「ね、ね、アルベルトはロンドンに来たことあるでしょう?」
「ええ、何度も。お仕事で、ですが」
アルベルトは優しい顔で、お喋りに夢中なヘンリーの頬のジャムを拭う。
「お父様は?」
「若い頃に何度か行ったな」
そう言うとルドルフは飲みさしのグラスを置いた。
「僕が行ってからも、だいぶ街が変わってきたよ。新しいものが沢山出来てーー」
ヘンリーの物語は止まらない。この楽しい時間を止めないかのように。
「今度、父上もいらしてください、アルも」
アルベルトは微笑んで。
「はい、是非」
「街の生活に慣れては、ここの生活は退屈だろう」
父の言葉に、大丈夫、とヘンリーは答えた。
「ロンドンも楽しいけど、ここの静かな所も好きです」
今度はアルベルトが、からかい半分、微笑んだ。
「良う御座いました。アルはヘンリー様が帰ってらっしゃらなくなってしまわれたら、どうしようかと案じておりましたよ」
「大丈夫だよー」
花が咲くような、少年の笑顔。
ーーと、突然いいこと思い付いた、とヘンリーが言った。
「旅行、行きませんか?!」
「旅行?」
はい、とヘンリーは身を乗り出す。
「ね、いいでしょ。3人で!僕、まだあと3週間もお休みあるし!」


「ああ、そうだな…」

父の言葉に、ぱっと、ヘンリーの顔が輝いた。

だが。


「アルベルトと二人で行って来るといい」
私は顔を上げた。英心は米櫃の蓋を閉じるところだった。
「あぁ、そうだね…」
私はうまく内心の動揺を隠せただろうか。
「ここの冬の厳しさは、格別でございます」
蓋の縁を押さえたままの形(なり)で、ぽつりと言った。

深山は静寂の中、聞こえるのは虫の声。しゅんしゅんとたぎるのは、竈に懸けた湯の音だ。

秋は短い。疾く過ぎる。

ほんのりと薄明かりに映る指。痛々しいその指の傷は、私の薬が効いたのか。
それでも薄くなりつつあった。


しかしその晩、私は英心の手を取れなかった。