こんにちは、コーヒー好き子です。

 

今回は「自分探し」という言葉について、思うことをぷらぷらと書いていきたいと思います。ただ、「自分を探す」という意味での話ではなく、「自分探し」という言葉が持つ独特な性質に関する話です。

 

 

 

私は「自分探し」という言葉を初めて聞いた時に強い違和感を覚えました。日々を過ごしていく中で、「推し」や「ヤバい」や「かわいい」という言葉を聞いたときと同じ違和感だと気づきました。

 

「自分探し」「推し」「ヤバい」「かわいい」...

共通点は一見なさそうに思えます。

が、私はこれらの言葉に共通して「ぼんやりとしたイメージ」で捉えていると思いました。正確に表現することができるのにも関わらず、あえてぼかした表現であるということです。

 

具体例を挙げましょう。

最もわかりやすいのは「ヤバい」です。

『今日の授業マジやばかったなw』

これは今日の授業が大変な状態であったことを表現しています。もしかしたら荒れていたのかもしれませんし、非常に質の高い授業だった可能性も考えられます。

正確に表現できれば、正確に伝わる。当たり前のことですが、「ヤバい」という言葉はこの法則を完全に無視し、曖昧な表現を用いています。

 

 

私が挙げたほかの言葉も同様です。

「自分探し」は自分の性格を理解しようとしているのか、他の職業に就きたいと思っているのか、あるいはもっと抽象的な「本質」とやらを見つけようとしているのか。一見するだけでは判断がつきません。

「推し」はどこがどう好きなのかという表現を避けています。加えて消費活動という要素をはらんでいる可能性があると思う、というのは前回の記事で話した通りです。

「かわいい」はかなり特殊な表現だと感じていますが、同じ性質を持っていると感じています。幼気・華麗・素敵...言い換えの候補はいくらでも存在しますし、言い換えの方が的確に表現していると思います。

「かわいい」に関しては「kawaii」という表現も存在する通り、一筋縄ではいかない難しい言葉であることは理解しているつもりです。

 

 

勿論「これらの曖昧な言葉を使うな」というのはお門違いでしょうし、何よりも言葉の進化として許容すべきという意見も理解できます。ただ、私は違和感を感じているし議論の余地があると思う、ということです。

 

どなたでも意見がある方はコメントまでお願いしますm(_ _)m