化石になった安倍貞任の足 | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

滝沢市役所の裏手には、チョットした丘陵地があります。その丘陵地の西側先端には『山ノ上三太夫』の墓と称される石碑があります。彼は江戸で活躍した大関でしたが、南部の殿様の勘気を被り処刑されてしまった人物です。ただ、本当にこの場所に彼が葬られているのかと問われれば、正直なところ自身が有りません。とはいえ、入口に見えやすい看板も立っていますので、探すのにはそう苦労しないと思われます。

さて、実はこの丘陵地には、殆ど忘れ去られたような歴史の遺物がもう一つあります。それが『安倍足』です。しかし、これが中々見つかりません。現地の人達も殆ど知らない様で、結局、丘陵地のまわりを小一時間ばかりウロウロする羽目になってしまいました。

安倍足入口

これが2013年5月時点の『安倍足』への入り口です。看板も何もありません。うっすらと草の生えていない道筋が見えるのみです。そして数メートル上ると、傍らに『安倍足』を置いた石碑が見えてきます。

安倍足石碑

石碑には「正一位岩鷲山田村大明神」と刻まれております。


安倍足

で、これが『安倍足』です。なんでも、大昔は左右がそろっていたという話も一部にあるようですが、現在は片足のみとなっています。これが毛靴を履いてカンジキをつけた足にでも見えるという事でしょうか。

この近辺には他にも手這い坂、胴が沢と呼ばれた場所があります。この安倍足に絡んだ伝説によると、安倍貞任は戦に敗れ、敗走の途中で脚を切り落とされ、それが化石となったという言い伝えがあるようです。その後、痛みをこらえてズルズルと手で這うように貞任が逃げ続けたという坂は「手這い坂」と呼ばれ、最後に止めの胴体への一撃を食らったとされる場所には「胴が沢」という地名が付けられたといいます。

この「安倍貞任が敗走するも、遂にこの地で捕らえられ、結局殺された」とか「なんとか逃げおおせて〇〇の土地で余生を過ごした」といった伝説は岩手県のみならず周辺の県にも沢山あるようで、実は何処で亡くなっているのかは全然わかりません。

まあ、なにぶん900年以上前の戦に絡んだ伝説です。どこまで本当の話なのかはわかりませんが、私はこういった話が現代に語り継がれてきた事には、きっと何か深い理由があるのでは、などと考えたりしています。伝説というものは人がそのように欲するからこそ残るものですから。

この岩手県内陸部の『奥六群』(岩手・紫波・稗貫・和賀・江刺・胆沢)に勢力を張った俘囚長、安倍氏に関してはそのルーツに謎が多く、いつどのようにして発祥したのか謎に包まれているのだそうです。

一説には千年以上も前、東北地方の蝦夷(エミシ)と呼ばれた土着の住人達を統治する為に、中央から派遣された支配層たちの子孫である可能性が高いという話もあるようです。そしてほんの一時期かもしれませんが、この北東北に大きな勢力をなしていた事は間違いないようです。

しかし、最終的に奥州の安倍氏は中央から派遣された源氏の軍によって滅ぼされ、最終的には確たるものが乏しい、伝説じみた話ばかりが残される事となります。

ちなみに安倍晋三首相は戦後死罪を免れ伊予の国に流された貞任の弟、宗任の子孫という事になっているらしいです。はるか遠方からやってきて、東北の地に住む者達と共に戦い、そして去って行った人達。その末裔が千年近く後の世に総理大臣にまで上り詰めた訳です。なんとも不思議な気分にさせられます。

※追記 ネット上で「手這い坂」や「胴が沢」について書いているページを見つけました。ご参考までに。

http://homepage1.nifty.com/tomori/museum/2/201takiz.htm