過去に診療したケースを紹介します。
16歳になるメスの柴犬のMが、『夜哭き』『不適切な場所での排尿』『部屋の片隅に頭を突っ込む』『うろうろ歩いてテーブルの脚の間に頭を挟みキャンキャン哭く』を理由にフェルラ酸とガーデンアンゼリカを組み合わせたサプリメントを飲み始めたのは、2016年の8月からでした。体重は7kgで、1回1包1日2回の投与で始めました。
投与開始から2週間ほどで症状は改善しましたので、1か月半はそのままの量を投与しその後、1回の投与量を半減しました。1回半包1日2回の投与です。それでも効果は維持されていましたが、投与開始後1年3か月後の2017年11月に『夜哭き』と『うろうろ歩いてテーブルの脚の間に頭を挟みキャンキャン哭く』症状が再発し、1回1包1日2回に戻しました。しかし、期待するほどの効果がなく漢方薬の抑肝散を0.5gBID追加しました。抑肝散は、人の認知症にも使用されている漢方薬で、不眠や徘徊、易怒などの陽性症状に対して抑制的に働きます。抑肝散の中には、不眠症に対して日局ソウジュツ、精神不安に対して日局ブクリョウ、日局センキュウ、日局チュウトウコウ、日局トウキ、日局サイコ、日局カンゾウが含まれています。
その7か月後、今度は『咬んで離さない』『布団の端を吸ったり咬んだりする』症状が出てきました。 『咬んで離さない』という症状は大変危険です。咬んだ後歯を食いしばっているように離れないのですから、咬まれた人が大けがをする恐れがあります。小さな子どもの指であれば食いちぎられる可能性があります。飼い主さんがMのためを思って敷布団を敷いたり掛布団を掛けていて、その布団の端を吸ったり咬んだりしているのです。ただ、布団の代わりにバスタオルのようなものを掛けたりしても、それを使うということはないそうで、布団の感触が母犬の乳房の感触に似ているのでしょう。そして、左下に寝ている場合はこの行動はなく、右下にしているとみられるそうです。ただその行動をしているときは、安らかな顔をしているのでどうしても布団を与えてしまうそうです。
症状は進行していましたので、漢方のサプリメントを追加投与しました。漢方のサプリメントは犬の不安・睡眠障害に対して使用する漢方サプリメントで、酸棗仁(さんそうにん)・珍珠母(ちんじゅも)・合歓花(ごうかんか)・蓮子芯(れんししん)が含まれています。以上に加えてチアプリドとクロルプロマジンも少量追加しました。この2種類は、抑肝散と同じ抑制系薬剤です。人の認知症専門医の処方を拝見していますと、1種類の薬剤で効果をあげることは少ないようで、多種類の薬剤を少量組み合わせて使っていることも多く、それを参考に投薬を組んでみたのです。
飼い主さんには、Mに対して「やさしく名前を呼ぶこと」と「体をよく触り、やさしく撫でるとかブラッシングをする」ことを薦めています。Mの症状はすっかり治まったとは言えませんが、飼い主さんは「以前に比べれば落ち着いている」ということでした。
4か月後、Mは安らかに息を引き取りました。
『布団の端を吸ったり咬んだりする』行動は原始反射のひとつである吸啜反射と考えています。
人には元来原始反射である吸啜(きゅうてつ)反射、探索反射、咬反射などが備わっています。原始反射は生まれてすぐに生きていくために必要な反射です。これらは橋や延髄と言った脳幹部に支配されていますが、成長とともに大脳皮質が発達すると前頭葉によって原始反射が抑制され、離乳して食べるという機能へと発達していきます。しかし、認知症に罹患すると前頭葉による抑制が解放され、再び原始反射が誘発されるそうです。その結果、人では指しゃぶりなどの症状が発現します。
犬も哺乳動物ですから同様の症状が起こる可能性は十分にあります。認知症の進行に伴って前頭葉の抑制が解かれ、原始反射のひとつである吸啜反射が現れ「布団の端を吸ったり咬んだり」するのでしょう。
「咬んで離さない」という行動も原始反射のひとつである咬反射の可能性があります。ただ、こちらの行動はその後見られていませんが、飼い主さんが注意深く行動しているために発現していない可能性もありますので治ったとは言えません。下顎の歯茎を固めのもので刺激することによって誘発させることができますが、飼い主さんに危険なチャレンジをしてもらうわけには行きません。「咬んで離さない」とか「何か吸う」いう行動はすべての認知症犬でみられるわけではありませんが、珍しい行動でもありません。これらの行動は早めにフェルラ酸を投与すればほとんど場合みられなくなります。ただ、年月を経て再発した場合は、各種の薬を組み合わせたりする必要がでてきます。