微力でしたが、国のためになれたことが、私の一番の誇りです。 | 「ぶわっ」

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世の乱れをぶわっと吹き飛ばすブログをめざします。

中国武漢新型肺炎病毒の災難が泥沼化している。

そのなかで医療関係者の方々はまさに「戦場」の中で奮闘されている。

かつて看護婦の先輩方は召集令状を貰い実際の戦場へ派遣された。

その体験談にいま学ぶことも多い。

 

従軍看護婦の証言

 

戦時の記憶を今

本社中庭から出発する南方地域に派遣される本部編成の第315救護班=1942年2月〔日本赤十字社提供〕

 多くの尊い命が奪われた先の大戦では、戦場で傷ついた傷病者を救護するため、日本赤十字社の救護看護婦たちも次々と戦地へ旅立っていった。女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地で救護班が編成された。

 その派遣先は満州や中国大陸、東南アジアにまで及び、傷病将兵や一般人の救護に当たった。しかし、戦況の悪化とともに過酷な勤務を強いられ、戦闘行為に巻き込まれたり、終戦後も長期に抑留されたりするなど、筆舌に尽くしがたい運命をたどった。

 日赤によると、日中戦争が始まった1937年から45年の第2次世界大戦終結までの間に、医師らを含む延べ3万5785人の救護員を派遣。殉職者は1187人に上るが、このうち看護婦が1120人を占めている。

 戦後70年近くなるこの時期に、日赤本社の協力を得て、元日赤従軍看護婦の何人かに対する長時間インタビューが実現した。自らの命も顧みず働いた戦時の記憶を今とどめなければ、語り継がれる機会が失われるとの思いに動かされた。

 今では想像することすらできない状況下で、自分たちの使命を果たそうと、ただひたすら努力し、青春をささげた女性たちの声を紹介する。

聞き手:時事通信社解説委員 宮坂一平

(2013年8月)

3回目の召集


 ■長谷部鷹子(はせべ・たかこ)さん

 1921(大正10)年、岐阜県の職業軍人の家に生まれました。父は近衛兵でした。「女でも手に職を付けておくことは大事だ。緊急のとき、夫に代わって家計を支えることができる。何もできないのはいかん」と、尋常高等小学校のときに言われました。

 女学校を出て、37(昭和12)年7月7日に盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まり、いとこから「役場で赤十字の看護婦さんの募集をしているよ」と言われ、試験を受けたわけです。100人くらい来ていましたが、幸い合格しました。入学はその年の12月4日でした。

 3年間勉強して、それからすぐ召集。内地の岐阜陸軍病院に半年間、4月までおりました。それから、2回目の召集で北支へ行きました。山西省、北京の西にあった臨汾陸軍病院に2年間勤務。昭和18年5月18日に帰国しました。

北支派遣時の長谷部さん(前列左端)〔長谷部さん提供〕 

 

北支は、黄砂が1週間くらい発生して前が見えないくらい。そういう中での勤務でした。急性伝染病棟の方でした。赤痢や腸チフス、パラチフス、発疹チフスなどの病気です。

 伝染病棟は200床くらいあったでしょうか。患者はレンガの上にわら布団。リンゲルを足にぶら下げ、水分補給の注射ですが、足がこんなにはれて。アメーバ赤痢というしつこい病気で、亡くなる人も多かったです。

 重症の人は私たちが食べさせました。つらいと思ったことはなかった。どんなことがあっても乗り越えなければならないと思いましたよ。

 有名な五台山の作戦があり、凍傷患者がたくさん出ました。兵隊さんは靴下や手袋に唐辛子を入れて、寒さを軽減していました。だけど、指が腐っちゃって。急に温めたらだめなんです。だんだん慣らしていかないと。内科に勤務替えになったとき、そういう患者を看護しました。

 帰国後、役場から保健婦の勉強をしてほしいと話が来て、1カ月の講習後に試験がありました。3回目の召集は、ちょうどその発表の日です。行き先はただ、南方とだけ。着いたところがビルマ(現ミャンマー)です。
 
 マレー半島北上、ビルマへ

 私たちは、※インパール作戦の(救護)要員として召集されたのです。昭和18年10月30日のことです。広島の宇品まで行って、11月5日に船で出発。台湾海峡を通って、シナ大陸の近くをずっと南下していきました。

 1カ月かけてシンガポールに上陸。南方の気候や地形、戦況を勉強して、昭和19年1月16日に台風の中を出発し、マレー半島を列車で北上しました。

 ザラメの砂糖をいっぱい積んだ貨物船や鉄道を乗り継ぎ、ビルマのラングーンに着いたのは2月に入ってからでした。

 内地を出るとき、救護班は石川、岐阜、長野、静岡、和歌山、広島、佐賀、愛媛など10個班でした。(シンガポール上陸後)スマトラなどに行く2個班と分かれ、その他がラングーンに到着したわけです。

 そこはもう第一線ですね。夜に到着したら、すぐに空襲があって。照明弾が落とされてダァーッとなったわけです。(敵にとっては)お茶の子さいさいですね。あー、戦場に来たんだなということを自覚しました。

 1週間、ビルマの病気などを勉強して夜にトラックで出発。真っ暗な道です。と言っても爆撃で穴が開いて、道と言う道は通れないの。トラックが右往左往して、揺れました。

 やっと灯がともるところまで来たのですが、そこがマンダレーでした。昔から王朝の栄えたところです。

 3月5日、そこから1300メートルの高地に上がりました。北部のメイミョウというところで、かつての英国の避暑地です。松林もあり、きれいなところでしたが、後に戦火に包まれ、陥落しました。

 そこで伝染病棟の勤務が始まったのですが、やはり、着いたとたんに爆撃、照明弾です。スパイが入っていて分かるんです。インドのデリー軍に通信するらしく、私たちを追っ掛けてくるような状態でした。

※中国への補給路(援蒋ルート)遮断を目的に日本陸軍が昭和19年3月、インド北東部の要衝インパール攻略に向けて開始した作戦。補給の軽視から食料や弾薬が欠乏。飢えやマラリアなどで戦病者が続出し、英軍の強力な反攻で、作戦は7月に中止され、多数の犠牲者を出して撤退した。

骨と皮、死にゆく兵士

長谷部さん インタビューに応じる

 病院は英軍の兵舎跡でした。町から離れたところで、山が丘のように低くなっていました。昼間、敵機の攻撃から退避するときは、その丘の方へ行ったんです。私は重症病棟だから行けません。いつも小さな小屋の中に隠れていました。

 勤務先は121兵站病院、藤原部隊でした。隊長は広島出身のとても立派な方でした。隊長殿の采配によって、きょうの命があるんです。

 初めは夜間空襲でしたが、だんだん戦争が激しくなって、昼でも攻撃してくるときがあって。私なんか、忙しくて午後4時ごろ、お昼ごはんのために草原を横断して宿舎に行くんですが、山からダァーと飛行機が来ちゃって。

 逃げるところもないし、草むらに本当に頭だけ隠して通り過ぎるのを見ていると、パイロットが手を振っているの。銃を持って。撃たれなかったので良かったですけど。

 「たこつぼ」と言って、ところどころに身を隠すための穴が掘ってあるんですが、そこへ飛び込んだところを、ザァーッと(掃射を)やられたこともあります。九死に一生を得て、きょうの命をいただきました。93歳になろうとしていますが、こんな話ができるのも幸せです。

 (病棟の患者は)こんなものを食べてたら、良くなる病気も良くならないというものを食べていました。それで隊長にお願いして、患者も少なかったので、私が作って患者にあげる許可をいただきました。それで衛生兵さんに炊事場から現品をもらって、病状に合わせておかゆを作り、スープを作りました。

 皆川さんという方がいて、「看護婦さんありがとう。こんなにおいしいおかゆをいただいて。お母さんが作ってくれたのと同じだ」と言って、ぼろぼろ泣いて手を合わせるのです。梅干一つとおかゆだけでしたけど、真心こめて作ったのでおいしかったのでしょう。そう言ってくださったことが忘れられません。

 あくる朝亡くなって、もう見えなかったですけど。東北の方で一等兵でした。インパール作戦で骨と皮だけになって。コレラだったので、水分を補給しなきゃだめでしょ。それも十分いかないものだから。

 アメーバ赤痢と発疹チフス、そういう患者がほとんどでした。腸チフスとマラリアが重なったらだめやと風評もたっていたほどです。マラリア患者はうわごとを言って、ベッドから飛び出して行くんです。すごい力です。

 今まで寝ていたのに、どこへ行ったんだろうと捜して、連れ戻さなければなりません。死者の数は本当に多くて。一晩に多いときは9人も出ました。
 
 隊長判断で脱出

救護員バッグ〔日赤本社展示室〕

 もう、そのころは前線も後方もごっちゃになっちゃって。戦線が乱れてしまって。敵は北部の戦場にいたんです。ところが、来るとは思わないところへ来ちゃった。

 ラングーンには和歌山班がいました。ここは全滅しました。敵が急に入ったもんで、逃げられなくて。途中まで逃げたけれど、川があって、シッタン川という川なんですけどね。

 死んでいくときは本当に骨と皮。(そういう患者を見てもインパールで)負けるとは思いもよりませんでした。勝ってるんや、勝ってるんやと。

 日赤の救護班は、和歌山班がラングーン、静岡班はカロー、熊本班はメイクティラー、メイミョウは愛媛、石川、佐賀、岐阜班と4個班いました。

 1個班は23人。医者はもうそのころはいなくて。本当は軍医である班長さんがいて、婦長さんが2人、あと看護婦が20人だけど、そうではなかった。だから、23人でなく21人。婦長さんも1人になってしまって。私が婦長の代わりをしていました。

 昭和20年2月11日夕のことでした。私たちはメイミョウを出発して、敵の中をずっと右往左往しながら、トラックでマンダレーまで下ったのです。

 隊長殿が「こんな状況になったのだから、救護班を後方に移そうと思うが」と師団司令部に電話を入れられたんです。そしたら司令部は「女のような足手まといになるものは知らん。勝手にせい」と。

 そしたら隊長殿は怒っちゃって。「今まで一生懸命ほう助してきたというのに」と。それから「よし」と言って、部隊のトラックを1個班に1台ずつ出してくださった。それに乗って山を下りたんです。
 
 山道に座り込む患者

 

 


 マンダレーの敵の真ん中を通り、3日間かけてやっとの思いでカローまで行ったんです。そこでは、静岡班が124兵站病院で勤務していました。まだ、真っ白な白衣姿で。それを見て驚きました。

 私たちはメイミョウに入ったらすぐ、ドラム缶に赤土を入れ、草を刈って入れて、白衣を染めました。白衣は目立ってだめです。メイミョウの土は赤い、真っ赤なんです。そしたら原野に生えている草の色と同じになって、それを着て勤務していました。

 隊長殿は軍医大佐です。とっても温かい方でね。隊長宿舎の隣に私たちの宿舎もあったんです。お食事作るといつも隊長殿のところへ持っていきました。でも、太平洋汁といって、カレーの中に小さなトマトが浮いているだけの食事でした。

 戦況がここまで悪化してきては、救護班をこのままとどめておいてはいけないと判断されて。師団を離れて独断でやってくださった。そのときは、敵もこっちへ入ってきてたんです。後方を遮断されていたわけです。それであんな白骨街道ができてしまったのです。

 カローも危なくなって。患者さんも全部東の方に行きなさいと。それで毎日おにぎりを作って持たせ、私たちが最後に出たのが4月23日でした。

 患者さんにはおにぎりを持たせ、お米も渡して、「行けるところまで行きなさい」と送り出し、私たちは後から来たんです。そしたら、もう歩けなくなった人、足が腫れて動けない人、そういう人が道にいっぱい座り込んでいるんですよ。それで「お水、お水」と言うので、私たちが水筒の水をキャップに移して1杯ずつ口に注ぎました。

 「あとから元気になって来てくださいよ」と、声を掛けるしかありませんでした。そう言って別れ、私たちは東へ東へと歩いたわけです。

 (トラック輸送は)できなかったですね。見るに忍びないけれど。山道ですよ。4分の1傾斜の道。2000メートル以上の山を越えてタイ北部のチェンマイへ抜けるのです。

 婦長もしまいには歩けなくなって、みんなで荷物を分けて持ちました。あんなところで一人になれば、生きる力はないです。何としてでも、みんな連れて帰らなければならないと。励まし、励まし、歩きましたね、夜も昼も。
 
日赤本社前庭にある殉職救護員慰霊碑=東京都港区 

 

雨期の行軍2カ月

 曹長さんと兵隊さんが2人ついてくれて、先頭になって歩いてくださった。そして引っ張ってくださったんです。地図を持っていました。

 私は途中で編み上げの靴が破れてしまい、縄でくくっても切れちゃって。それでつるでくくって、歩いていきました。足にまめができても痛さが分からない。川を何回も渡り、足はふよふよになってしまいました。

 歩かなきゃだめです。何せ足が元気でないと。小休止のときは、ご飯を食べて。横になるのは大休止のときだけ。雨期なので、山からダァーッと赤土の水が流れてきます。それに膝まで漬かり、泥と水で着ている物も泥だらけです。

 大休止で野営になるのですが、探すのが大変でした。山の中で、どこに宿をとろうかと。2人1組になって、天幕の1枚は下に敷き、もう1枚は木に渡して天井にしました。

 雨期の行軍2カ月です。4月23日から6月18日まで。みんなで一緒に行動していたのに、それぞれになっちゃって。一緒に歩いているという感覚がなくなってしまいました。

 山一つ越えて集落に出たときは、(地元住民と)持っているものを物々交換です。時計も米に換えたし、万年筆も。米は軍足の中にしまい、背嚢に入れました。

 米は大休止の夜に炊くしかありません。友達と2人なので、飯ごうで炊いて、半分は次の昼食にとっておくんです。雨が降っているから、マッチが湿って火がつかないんですよ。

 サルウィン川を行ったり来たりして62回も渡りました。岸と岸の間にロープ、運動会の綱引きの綱みたいなのが渡してあるんです。それにつかまり、足は浮いているんです。それでも渡ったんです。死に物狂いで。よう渡りました。やれと言われても二度とできないです。
 
 眠れなかった夜

 やがて稲が育って青々としているのが見え、やれやれと思って山を下りてきたんです。そしたら立派な寺院があり、回廊にばたんと倒れ、もうここまで敵も来ないだろうと寝込んだら、「ザァー」と大きな音がして。「爆撃やー」と声が上がりましたが、爆撃ではなかったんです。

 タイ側から軍用トラックが7台、私たちを迎えに来てくれたんです。第5飛行大隊の隊長さん、岐阜県出身の中佐でした。戦後、県内の郡役所に勤め、私を自宅まで探しに来てくださって。いろいろお話ししました。夢のようでした。「よく帰ってきたねえ」と言って。

 トラックが7台も来て、本当にうれしかったです。それからチェンマイまで行くと、藪の中に竹で組んだその部隊の宿舎がありました。

 病院部隊の本隊は7月21日にバンコクに向け南下しました。私は2人の部下が下痢が激しく歩けないので、看護のために残りましたが、南下する鉄道司令官の少将の配慮で特別列車に乗せていただき、8月27日にチェンマイをたちました。バンコクからは乗用車にも乗せてもらい、3人とも命拾いしました。サイゴンに着いたのが9月5日です。

 8月13日に曹長が私を呼ばれて、「近日中に天皇陛下のお言葉がある」と言われました。しかし、ラジオがあるわけでもなく、本当に終戦を知ったのは、サイゴンで私たちを迎えてくれた本隊からでした。

 何とも言えませんでした。天皇陛下のお心の内を思うと、とてもやるせない気持ちでいっぱいでした。どんなお気持ちでいらっしゃるだろうと。陛下一筋に生きてきた人間です。教育もそのままでしたし、父が軍人でしたから。軍人勅諭を基本とした生活でした。泣けて、泣けて、その夜は、いつまでたっても眠れませんでした。
 
 穏やかな風景

 命をいただき、サイゴン陸軍病院のショロン分院で勤務した後、昭和21年5月18日に帰国しました。「葛城」という航空母艦で、広島の大竹港まで1週間で行きました。

 懐かしかったですね。航空母艦で沖縄を通ったとき、お船が浮かんでいて、それに乗っている人を見たときに涙が出ました。ああ、穏やかな姿だなあと。

 岐阜には20日に戻りました。弟が予科練の航空隊に行っていまして、沖縄へ出るところで出発が遅れ、行かなくてもよくなって。その弟が駅まで迎えに来てくれ、家まで40分ほど歩いていろいろ話をしました。「ご苦労さんでした。良かったね」と。

 私は、弟は戦死したものと思っていました。父は「日本人と生まれたからには、日本のために死ぬことは覚悟しなきゃいけない」と常々言っていました。沖縄の海を通るとき、この海戦で死んだんだろうなと思っていたのですが、迎えに来てくれたので、びっくりしました。今も元気で頑張っております。

 父も「ご苦労さんだった。よく帰ってきました」と言ってくださいました。「よく、国のために働いたね」と言ってほめてくれました。微力でしたが、国のためになれたことが、私の一番の誇りです。

 私が南方へ出発するとき、父は岐阜駅まで送ってくれて、「保健婦の試験、合格していたよ。元気で頑張ってきてね」とそれだけです。軍人だったので、さっぱりしていました。

救護看護婦制服(1899年制定)〔日赤本社展示室〕 

 

日赤から貸与された紺色の制服は、メイミョウを出るときも背嚢の中に畳んで持ってきました。これは最期の服装だからと。大事だから、最期の時にはこれを着て死のうねと言って。

 日赤精神です、何事も。会釈、返事の仕方、食堂のテーブルも奥の方は上級生と決まってるんです。規律がないと崩れてしまいます。

 岐阜班は全員帰りました。団結して一つになりました。1人でも落後者を出したらいかんから、みんなで支え合って、引っ張り合って、山越えして。食べるものもありませんでしたが、草も虫がついていたら食べられるから、そんなのを摘まんできて塩を入れて。そんな毎日でした。

 お国のために働いてくださった人がいて、そのおかげで、きょうがあるんだと感謝しております。これまで10回もビルマに行って慰霊祭をしてきました。隊長殿のご恩も忘れることはありません。亡くなるまで1年に3、4回、広島に行ってお見舞いをしてきました。

 帰国後、(結婚した)主人が病弱で、看護の傍らに勉強して教員の資格を取りました。子供たちには、平和な国でなければいけないということだけ教えました。
 

 https://www.jiji.com/jc/v4?id=1308jrc0001

 

 

 戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言