韓国軍とアメリカ軍の本物「性奴隷」を世界遺産へ。 | 「ぶわっ」

「ぶわっ」

世の乱れをぶわっと吹き飛ばすブログをめざします。

 いま南鮮は日本軍慰安婦資料を「世界記憶遺産」に登録しようと運動していると聞く。
 だが慰安婦というならば捏造、偽証で慰安婦詐欺事件を起こしている自称慰安婦ではなく、実際に拉致、強制連行された性奴隷慰安婦が半島にはまだ生きている。
 それが韓国軍慰安婦、アメリカ軍慰安婦だ。
 またベトナム戦争当時も前線基地のあったサイゴンには韓国軍慰安婦アメリカ軍慰安婦もいて韓国兵、米兵は「慰安所」へ入り浸っていた。こうした実在した性奴隷慰安婦を世界遺産に登録すべきであろう。公式な資料もいくらでもある。南鮮ではあわてて隠蔽しているが朴正煕の関わったアメリカ駐留軍兵士相手の国家管理買春資料も世界に公開して世界遺産に登録してもらいたい。
 今年ホト大統領は6月にアメリカを訪問しオバマ大統領と会見するという。
 そこでぜひアメリカ兵駐留軍の性奴隷にされた洋公主たちへの謝罪と賠償を要求してみたらどうか。
 「アメリカ軍が朝鮮人女性を無理矢理に性奴隷にしたニダ」
 「朝鮮戦争でアメリカ兵は朝鮮人女性をレイプしまくったニダ」
 「アメリカ軍の性犯罪、女性の人権侵害、人権蹂躙ニダ。謝罪と賠償するニダ」
 「応じてくれないないならアメリカに洋公主少女像を建ててたるニダ」
 こう言ってアメリカにドルをタカってみたらどうニダ。
 オバマはアメリカの隠蔽している恥部を突かれて南鮮のシナ属国化を許してくれるかもしれないニダよ。
 慰安婦詐欺事件を正当化させるために捏造の恨日プロパガンダを繰り返す南鮮政府とホト大統領。それをみて、オバマは一緒になって日本を批判しているが、朝鮮戦争やベトナム戦争で韓国軍とともに慰安所で慰安婦という性奴隷を活用したのはアメリカ軍ではないか。さらに朝鮮半島駐留軍のアメリカ兵も基地村という遊興施設で朝鮮人売春婦を弄んだ。この事実はすでに明らかである。
 この恥知らずの南鮮とアメリカの大統領の会見では両国の性奴隷加害者の立場を相互に確認し、その犠牲になった慰安婦への謝罪と倍賞を行うことを表明すべきであろう。
 在韓米軍近くの売春街「基地村」には米軍相手の「慰安婦」として働かされていた朝鮮人女性がいた。
 これら「基地村」で働かされていた122人の韓国人女性が昨年、1人あたり約100万円の国家賠償を求めて南鮮政府を相手取って集団提訴した。
 各基地村には、性病にかかった慰安婦たちを強制的に収容する性病管理所があった。
 そこは鉄格子がはめられ「モンキーハウス」と呼ばれていた。
 女性たちは性病感染が完治するまで監禁され通常よりも過剰なペニシリン注射を打たれた。
 そのショックで発狂したり死亡した女性も少なくなかったのである。
 性病にかかっていない売春婦は健全の印として病気でないというカードを持たされていた。
 女性を人間扱いしないでまるで性動物扱いした韓国政府とアメリカ軍はまさに鬼畜である。
 南鮮政府は日本への国家的慰安婦詐欺を執拗に継続しているがアメリカ兵相手の性奴隷訴訟には冷淡だ。
 裁判所は「訴えたほうが被害者だったことを証明しろ」と突き放している。
 その証拠となる政府資料は隠蔽したままだ。
 捏造した慰安婦詐欺事件を女性の普遍的な人権問題というならそれは日本軍慰安所にいた戦時下の志願売春婦ではない。

 南鮮国家の国家事業として売春させられた洋公主のほうが南鮮政府により人権蹂躙された被害者そのものである。

 つまり米韓による朝鮮戦争下及びアメリカ駐留軍の女性の人権侵害問題、国家管理買春問題が存在するのである。

 米韓両政府が重大な女性の人権侵害を起こした問題であり、これとまったく同じ米韓の性奴隷問題がベトナム戦争でも韓国軍慰安所で起こされている。
 世界記憶遺産には捏造慰安婦詐欺事件ではなく歴史の汚点としての韓国軍慰安婦、アメリカ軍慰安婦という米韓の本物の性奴隷を登録して永久に朝鮮人、アメリカ人の女性への人権侵害を記録しておくべきである。


「北から連行された女性たちが韓国兵の「性奴隷」になった過去」

NEWS ポストセブン 5月11日(月)16時6分配信

 韓国政府が旧日本軍の慰安婦関連史料を永久保存し、ユネスコの世界遺産登録を目指しているという。だが、そこに自国による「韓国軍慰安婦」の史料は含まれない。ならば、歴史の闇に埋もれる前にここで公開しよう。

 韓国軍が女性をどのように扱ってきたかという歴史的記録の数々を、在韓ジャーナリストの藤原修平氏が明らかにする。

 * * *
 朝日新聞が「吉田証言」(文筆家・吉田清治氏の「日本軍が朝鮮人女性を連行し慰安婦にした」という証言)の誤報を認めた昨年8月以降、強制連行のカードを失った韓国政府は、慰安婦の“人権蹂躙”を訴える戦術に舵を切った。日本政府から謝罪と賠償をもぎ取るための材料だった「強制性」の根拠が揺らいでいるからだ。

 人権蹂躙は、韓国が慰安婦問題で日本を非難するうえでの基盤となっている。これをクローズアップし国際社会からの同調を得て、自国に有利な国際世論を形成しようという算段だ。その一方で、「正しい歴史認識」が口癖の韓国政府は、自国が主導したもう一つの慰安婦の存在をひた隠しにしてきた。

 韓国軍慰安婦の存在が初めて韓国メディアで報じられたのは2002年2月。慶南大学の金貴玉・客員教授(現・漢城大学教授)が「朝鮮戦争中に韓国軍慰安婦がいた」という調査報告を、立命館大学の国際会議席上で発表したのである。このことは『朝鮮日報』をはじめとする韓国の主要メディアで大きく報じられ、韓国社会に衝撃を与えた。

 金教授が根拠の一つとして挙げたのが、1956年に韓国陸軍本部が編纂した公式資料『後方戦史・人事編』にある記述だ。

 現在、この資料を民間人が閲覧することは困難であるが、筆者はわずかな手掛かりから資料の入手に成功した。そこには朝鮮戦争(1950~1953年)時の「特殊慰安隊」設置の経緯が次のように記されていた。

「士気昂揚はもちろん、長期間の戦闘で異性に対する憧憬から惹起される生理作用がもたらしうる性格の変化、憂鬱症やその他の支障を未然に防止するために、特殊慰安隊を設置することになった」

 資料では、慰安隊として活動する女性を「慰安婦」と称し、「週2回、軍医官が厳格な検診を行い、性病に対する徹底的な対策を講じた」ことも明記されていた。性病検診を定期的に行うのは、慰安婦が不特定多数の兵士と性的な関係を持つことを前提としていたためで、韓国陸軍はそうした組織を公式部隊として運営していたことが判る。

 慰安隊はソウル市中区忠武路周辺と、日本海に面した江原道江陵地区にそれぞれ3部隊、そのほか江原道の主要都市である原州、春川、束草にそれぞれ1部隊が配置され、計9か所に89名の慰安婦が動員された。

 慰安隊の運営開始時期については定かではない。ただ、設置目的が朝鮮戦争で戦う韓国軍のためであること、前述の『後方戦史』に1952年の特殊慰安隊実績統計表が掲載されていることから、1951年までには運営が開始されたと推定される。なお、慰安隊の廃止は1954年3月と明記されていた。

 統計表には、4部隊における1952年の利用実績が月ごとにまとめられている。利用者が多くなるのは春から夏にかけてで、最も多いのは8月の約2万2000名。1年間の利用者は延べ約20万5000名に上った。慰安婦は単純計算で1日平均6名以上の兵士の相手をしていた計算になる。

 金教授は、「上記9か所の固定式慰安所のほかに、移動式慰安所があった」ことも明らかにしている。後者は軍部からの要請があると、指示された部隊まで出張して特定期間テントを張り、そこで運営する形態をとっていた。

 移動式慰安所については、朝鮮戦争に参加した元韓国軍幹部の回顧録にも書かれている。例えば、全斗煥政権下で陸軍第二司令部司令官などを歴任した車圭憲氏は、回顧録『戦闘』(1985年)の中で、「24人用の野戦テントの内部をベニヤ板と防水布で仕切った野戦寝室に慰安婦は収容されていた」と、当時の移動式慰安所の光景を綴っている。

 また、同じ頃に首都師団の小隊長であった金喜午氏の回顧録『人間の香り』(2000年)によれば、移動式慰安所には「小隊ごとに2名(中隊全体で合計6名)の慰安婦が日中の8時間に限って宛がわれていた」という。

 さらに金氏は、慰安隊が「第五種補給品」と呼ばれていたことを同書に記していた。

 韓国軍の実際の軍補給品は食料や被服類、燃料など一~四種までで、慰安婦をそれに並列させるこの俗称は、慰安隊の女性たちが“物品”として扱われていたことを示している。これが「人権国家」を標榜する韓国の実態だった。

※SAPIO2015年6月号
http://www.news-postseven.com/archives/20150511_321285.html?PAGE=2



「ベトナム元憲兵「慰安所で10代少女が韓国軍の相手していた」
「浴場から約1km離れた場所には、米軍MPの施設がありました。その鼻先には売春斡旋を目的とするバーが建ち並び、韓国兵や米兵が入り浸っていた。

 付近の『ブイ・ヴィエン通り』と呼ばれる歓楽街は売春婦のたまり場で、バーから連れ出したベトナム人女性を連れ込むためのモーテルもたくさんありました。女性を巡って兵士たちが殴り合う光景を目にしたこともある。遊びに行く前に麻薬を使う者も多く、トラブルは絶えませんでした」

 元南ベトナム政府軍の兵士だったタイン・アン・コンさん(仮名)もこう話す。

「サイゴンのブイ・ティー・スワン通りは、麻薬を扱う店が軒を連ねていたことから『麻薬通り』と呼ばれていました。休暇のため前線から戻ってきた韓国兵は、空港からここに直行し麻薬を購入、使用してから女性を買いに行くのが恒例でした」

 韓国兵が女性を求めて繰り出す先は、慰安所だけに止まらなかった。

「5区にあるホアビン公園は別名『ダイハン(大韓)公園』と呼ばれていました。ここで商売をする女性を漁るため、毎日のように韓国兵が押し寄せたからです。女性はいつも20~30人ほどいて、韓国兵の間では『ホアビンの女は質が高い』と評判でした。

 ただし、女性から聞かされるのは韓国兵の悪評ばかり。女性が服を脱ぐ間もなく乱暴に押し倒したり、ことを終えた後に『お前は下手だ』と罵り、金を払わない韓国兵がいたからだそうです」(前出・コンさん)

※SAPIO2015年6月号
http://www.news-postseven.com/archives/20150503_320356.html?PAGE=2



「ベトナムのアメリカ軍慰安所と南鮮駐留米兵相手の基地村管理買春」

●韓国とフィリピンの間にも人道的な問題が発生している。少なくとも4千人以上の未成年のフィリピン人の娘たちが、韓国にある米軍基地近くの赤線地帯の売春宿に売られて来ているのである。
                 《曽野綾子 「社長の顔が見たい」》

●ベトナム戦争中の米軍慰安婦については、スーザン・ブラウンミラー(米人女性ジャーナリスト)の「Against Our Will」(1975年)に詳細なルポがある…「鉄条網で囲まれた公認の軍用売春宿では60人のベトナム女性が住み込み…1日に8人から10人をこなす。料金は500ピアストルで、女性の手取りは200ピアストル、残りは経営者が取った。彼女たちを集めたのは地方のボスでペンタゴンも黙認、女たちは週ごとに軍医の検診を受け…」。
日本軍の慰安所と瓜二つではないか。
                         《秦郁彦 産経新聞2007/3/11》
                         
今月8日、米紙『ニューヨーク・タイムズ』が、こんな見出しの記事を掲載した。同じ記事は同紙傘下の『ヘラルド・トリビューン』紙翌日付にも掲載されているが、いずれも国際面と1面で半分近くの分量を割いた記事だ。 執筆者は、両紙のソウル特派員である崔相薫(チエ・サンフン)。
●<韓国は長年にわたって、旧日本軍向け売春施設で韓国やその他の地域の女性が働かされていた戦時下の最も醜い歴史の一章、いわゆる従軍慰安婦問題について、日本政府がその責任範囲を曖昧にしていることを厳しく批判してきた> という書き出しの後 、記事はこう続いている。

<そしていま、今度は、韓国の元売春婦グループが、北朝鮮から韓国を防衛していた米軍兵士を相手に、自分たちにセックスをするよう奨励するという、別種の虐待を行なったとして、自国の元指導者を告発した。彼女たちはまた、韓国の歴代政権および米軍が、1960年代から1980年代にかけてセックスビジネスに直接かかわり米軍兵士が性病に罹らないように売春が行なわれるよう、性病検査および治療体制を共に構築したとして、利用者を告発している> <これらの女性たちは、(中略)韓国自体の歴史を厳しい目で検証することをせずに日本からの賠償を求めるのは偽善だと、歴代韓国政府を非難している>
●そして崔記者は実際に米兵士相手の「慰安婦」だったという金愛蘭(キム・エラン)さん(58)に取材し、
<韓国政府は、米軍相手の大手売春斡旋業者でした>という指摘や、<政府はGI相手にできるだけたくさん商売するよう熱心に奨励し、私たちを“ドルを稼ぐ愛国者”として賞賛したのです>との悲痛な訴えを引き出し、
さらに、他にも7名の元「慰安婦」らに取材した結果、
<米韓当局は、番号札を用いて女性を識別し、兵士達がセックスの相手をより容易に見分けられるよう、売春宿に番号札の着用を強要していたと女性たちは述べる> <性病に感染していると見なされた売春婦たちを韓国警察が連行し、女性たちによれば、窓に鉄格子がはまったいわゆる“モンキーハウス”と呼ばれる監視施設に監禁したという。この施設で、売春婦らは性病が治癒するまで治療を受けることを強要されたという>などの証言も得られた。
●同紙が独自に韓国および米国の公文書を調査した結果、
<これら公文書の中に、女性たちの主張の多くを裏付けるものが見つかった>
<韓国では売春は違法であるにもかかわらず、基地付近での売春を韓国も米軍も容認していた、何十年にもわたり明らかであった>とも指摘。
                               《週刊新潮2009/1/22》
http://kenjya.org/ianhu7.html                                
                         



「朝鮮戦争時代にいた米軍相手の特殊慰安婦」
韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』には「固定式慰安所-特殊慰安隊」とあり、朝鮮戦争中は「特殊慰安隊」、]または「第5種補給品」とも呼ばれた。

朝鮮戦争後は「美軍慰安婦(美軍はアメリカ軍のこと)」「国連軍相対慰安婦(UN軍相對慰安婦)」と呼ばれた。

ほかに蔑称の意味合いもある「洋パン(ヤン・セクシ)」「洋公主(ko:양공주、ヤンコンジュ、ヤンカルボ)」、また毛布一枚で米軍基地について回るという意味で「毛布部隊」、ベトナム戦争時は「ディズニーランド」とも呼ばれた。また米兵を相手にするフィリピン人慰安婦を「ヤンキー売春婦」「コメで動くチビ茶色のファッキンマシーン」などとする蔑称もある。ほかにジューシーガール(juicy girls)、バーガール(bar girls)、ホステス(hostesses)、エンターテナー(entertainer)という言い方もされる。

「挺身隊(정신대)」・国軍挺身隊とも呼ばれた。

これらの英語表記はcomfort womanであり、日本語の慰安婦の英訳と同一である。英語では韓国軍・在韓米軍慰安婦は一般にKorean Military Comfort Womenと表記される。

もっとも朝鮮戦争やベトナム戦争におけるこの種の行為について韓国内では全く議論になっていないため、韓国最大手の新聞朝鮮日報でも「人の心を持った国なら、自国民を国営売春婦にするという発想はしない。」との記事を執筆するレベルの認識にとどまっている。
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2014/04/post-d06b.html
「オバマに伝えたい韓国軍慰安婦と国連軍慰安婦の実態」



「慰安婦だらけの韓国軍とアメリカ軍。また朝鮮戦争後にも駐留米兵相手の朝鮮人慰安婦が2万人」
韓国軍慰安婦(かんこくぐんいあんふ)、または大韓民国軍慰安婦 (だいかんみんこくぐんいあんふ、한국군위안부、대한민국군위안부、Korean Military Comfort Women[1])とは、日本が大東亜戦争で無条件降伏した後における韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦。朝鮮戦争やベトナム戦争では韓国はアメリカ合衆国を基盤とした連合軍に参加したため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍も利用した。現在も坡州市のヨンジュコル(용주골、en:Yong Ju Gol)[2][3]などに存在している。

ベトナム戦争の時には、サイゴン(現ホーチミン市)に韓国軍の慰安所が存在していた[4]。

朝鮮戦争と特殊慰安隊[編集]

1948年8月15日にはアメリカ合衆国の支援を受けて大韓民国が建国された。同年9月9日には朝鮮民主主義人民共和国が独立する。しかし、1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。

朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦を募集した。韓国政府は、韓国軍・米軍向けの慰安婦を「特殊慰安隊」と呼び、設立した[11][6][22]。

大韓民国政府は、韓国軍と国連軍のための慰安所を運営した[23]。韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた[6][7]。部隊長の裁量で周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した[10]。韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も利用した[10]。

韓国戦争以降1990年代まで在韓米軍の韓国駐留時[24]に大韓民国の国軍によって強行され、大韓民国の国軍と在韓米軍の性的欲求を解消する目的で強制的に集団的性行為を強要された事例もある。

「特殊慰安隊」[編集]

韓国軍が1951年-1954年まで「特殊慰安隊」という名前で、固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したことは韓国陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である『後方戦史』(후방전사)の人事編と目撃者たちの証言によって裏付けられた[25]。

韓国軍は慰安婦を「特殊慰安隊」と名付け、慰安所を設置し、組織的体系的に慰安婦制度をつくった[26][27]。

第五種補給品[編集]

尉官将校だった金喜午の証言では、陸軍内部の文書では慰安婦は「第五種補給品」とよばれた[26][28]。

軍補給品は1種から4種までだったため、そのように呼ばれた[26][28]。

韓国軍慰安婦の類型[編集]

金貴玉によれば、韓国軍慰安婦の類型には、軍人の拉致、強制結婚、性的奴隷型、昼は下女として働き、夜には慰安を強要されたり、また慰安婦が軍部隊へ出張する事例もあった[26]。

また、正規の「慰安隊」とは別に部隊長裁量で慰安婦を抱えた部隊もあった[29]。

慰安婦の輸送方法[編集]

慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めてトラックで移送し前線を移動して回り、米兵も利用した[27][10][31]。

設置時期と場所[編集]

韓国政府は、韓国軍だけではなく国連軍のための慰安所も運営した。

韓国政府による慰安婦政策:「特殊観光」[編集]

1960年代の韓国ではアメリカ軍相手の売春が国家を挙げて奨励され、国民総生産の25%を占めていた[40][14]。1962年の韓国の相場では、ショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルであった[10]。固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいた[10]。

1970年代になると、外貨稼ぎの主軸とみなされるようになり[14]、慰安婦・洋公主たちは「ドルを稼ぐ愛国者」、「真の愛国者」、「ドルを稼ぐ妖精」「民間外交官」[14]と韓国政府から称賛された[30][41][42][35][14]。

1961年、朴正煕政権は観光事業振興法を制定し、免税ビールを許可された特殊観光施設業者を指定し、赤線地帯を設立していった[14]。1962年6月には保健社会部、法務部、内務部合同で韓国国内の104カ所の淪落地域を設置、龍山駅、永登浦駅、ソウル駅、梨泰院、東豆川、議政府などもそこに含まれた[14]。国内で管理売春政策をすすめる一方、1962年4月に韓国は人身売買禁止条約に署名している[14]。

朴正煕政権は、慰安婦を新たに「特殊業態婦」という呼称でよぶようになり、特殊観光協議会と韓米親善協会が、売春の制度基盤となった[14]。

1960年代の東豆川だけで未登録の私娼が1万名のものぼり、米兵2,3名あたり1名の娼婦がいた[14]。1962年の韓国ではアメリカ兵相手の慰安婦として2万名以上が登録されていた[10][43]。韓国政府推算では1万6000名[14]。

(Wikipedia)「韓国軍慰安婦」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6