山の小駅に咲いた柴犬の純粋な愛
春の終わり、小さな駅の出会い
⛰️ 山の奥にある「小倉見(こくらみ)駅」は、無人の小さな駅でした。
一日に数本の列車しか来ない、観光客にも見過ごされがちな駅舎です。
その駅に、ある日ぽつんと――
一匹の柴犬が現れました。
茶色の毛並みに、くるりと巻いたしっぽ。
首輪もなく、少し痩せてはいましたが、瞳はまっすぐで不思議な存在感がありました。
若葉が揺れる山道を歩いていた地元の高校生・陽菜(ひな)は、下校途中の駅のベンチでその柴犬を見つけました。
「……誰かの犬、かな?」
話しかけると、柴犬はゆっくりとこちらを見て、しっぽをふわりと一度だけ振りました。
けれど、近づくこともなく、ただ駅のホームの端に座ったまま、線路の向こうをじっと見ているのです。
🐾
それが「ハチ」の始まりでした。
陽菜が勝手にそう呼ぶようになっただけですが、それから毎日、同じ時間に駅に来ると、必ずその柴犬が同じ場所にいたのです。
「ねえ、何を待ってるの? 電車?」
陽菜はパンの耳を分けてあげたり、時には自分のマフラーを座布団代わりに敷いたりしながら、静かな時間を柴犬と共有していきました。
不思議なことに、柴犬は雨の日も、雪の日も、決して駅を離れなかったのです。

🕊️ 村の噂と、古い記憶
「またあの子が駅におったぞ」
やがて、村の人々の間でもその柴犬の話が広がり始めました。
「誰かの飼い犬やったんやろか」
「いや、あれはずっとおる。まるで“誰か”を待っとるみたいや」
すると、陽菜の祖母がある夜、ぽつりとこんなことを言いました。
「それ、もしかして……真司(しんじ)くんの犬かもしれんなあ」
陽菜は目を丸くしました。
祖母によれば、10年ほど前に亡くなった青年・真司さんが飼っていた柴犬に、そっくりなのだというのです。
真司さんは大学進学で町を出たあと、帰省中に事故で亡くなりました。
駅まで見送りに来た愛犬は、それから姿を消したのだと。
「でも、10年も前の話でしょ? その柴犬、そんなに長生きしてるってこと?」
「……わからん。ただな、犬って時々、そういう“不思議”を超えることがあるんよ」
祖母のその言葉に、陽菜の胸はざわめきました。
見つめる先にいた“誰か”
🌧️ 6月の終わり、山に梅雨の雨がしとしとと降っていました。
陽菜はいつものように駅へ向かう道を、傘をさして歩いていました。
その日も、ハチは駅のホームの片隅に、しんと座っていました。
毛並みは濡れていたけれど、彼はそれを気にするふうもなく、ただまっすぐ線路の先を見つめていたのです。
「……今日も来たんだね」
陽菜はそっと傘を差し出しました。
ハチは顔だけ少し上げて、目を細めるようにして陽菜を見ました。

🐾
不思議だったのは、ハチが決して陽菜の手から食べ物を直接取ろうとしないことでした。
パンを差し出しても、彼は少し距離をおいて、陽菜が置いたあとにそっと食べるのです。
まるで――
「ありがとう。でも、私はまだ待たなきゃいけないんです」
そう言っているかのようでした。
そして、陽菜はふと気づいたのです。
ハチが見ている方向、それは「上り電車」が来る線路の先――
つまり、「誰かが帰ってくる方」でした。
「……帰ってくるの、待ってるんだね」
陽菜はそうつぶやきながら、ハチの横に腰を下ろしました。
やがて来た電車がガタンゴトンと音を立ててホームに入ってきました。
ハチはその時、わずかに体を起こし、目を凝らすようにしてドアの方を見ました。
けれど、誰も降りてこなかった――
電車が去っていくと、ハチはまた静かに座り直しました。
その後ろ姿は、何かを諦めない意志のようなものを、陽菜の胸に強く残したのです。
🍂 駅ノートの秘密
ある日、陽菜は駅舎の隅に置かれていた古びたノートを見つけました。
「駅ノート」と呼ばれるもので、訪れた人が自由に書き込みを残せるノートでした。
ぱらぱらとめくっていくと、あるページにこう書かれていました。
「今日もあの柴犬がいた。
ずっと誰かを待っているみたいで、なんだか泣けてくる。
もし、飼い主だった人が見てたら――
この子、ここにいます。あなたのこと、待ってますよ」
日付は3年前。
それからも、定期的に“あの柴犬”についての記録が書かれていました。
「冬の雪の日も、ちゃんと来ていた」
「誰かが作った段ボールの小屋で寝てた」
「今日は誰かと一緒にいた。女子高生みたいだった」
陽菜は思わず微笑みました。
――自分のことだ。
誰かが、見ていたのだ。
その時、彼女は初めて「この柴犬は、駅の“風景”の一部」になっていることに気づきました。
🧳 突然の報せ
夏休みに入って間もないある日。
陽菜は家に戻ると、玄関先で見慣れない中年の男性と祖母が話しているのを見かけました。
その男性は、手に古びた写真を持っていました。
写真の中には、若い男性と、まだ子犬だった頃の柴犬が写っていました。
「間違いありません、この子です。真司の“コロ”です」
陽菜は目を見張りました。
男性は真司さんの弟で、仕事の都合でしばらく海外に住んでいたそうです。
たまたまSNSで「小倉見駅の柴犬」の噂を見て、まさかと思い訪ねてきたのでした。
「兄の犬が、10年経っても……あそこに?」
信じられない、と言いつつも、男性の手は微かに震えていました。
「一度だけ、駅まで見送りに行ったあと、帰ってこなかったと聞いていました。
でも、そんな……ずっとそこにいたなんて……」
陽菜は黙って頷きました。
その晩、彼女は祖母に尋ねました。
「10年も経って、犬って飼い主を覚えていられるのかな?」
祖母はしばらく黙ってから、ぽつりと答えました。
「覚えとるさ。……心で、覚えとるんよ」
記憶の扉、そして再会
🌤️ 数日後の朝。
陽菜が駅に向かうと、ホームには見慣れない男性がひとり、静かに立っていました。
真司さんの弟――和馬さんでした。
「……まだ、来てませんか」
陽菜が頷いた瞬間、線路の向こうから、
――カツッ、カツッ、と軽い足音が聞こえました。
姿を見せたのは、いつものようにゆっくりと歩いてくる柴犬。
ハチ――いや、コロでした。
その瞬間、和馬さんが、ほとんど無意識のように名前を呼びました。
「……コロ」
🐕
ハチは一瞬、立ち止まりました。
そして――まっすぐに和馬さんの方へ駆け寄ったのです。
しっぽを大きく振って、小さく鳴くようにして、前脚をそっと和馬さんの足元に置きました。
「……覚えてたのか。俺のこと……いや、兄貴のこと……」
和馬さんの目には、静かに涙が浮かんでいました。
陽菜は、黙ってその光景を見ていました。
言葉はいりませんでした。
あの駅の風景の中で、ただ一つだけ変わったもの――
それは、待つ柴犬の瞳が、ついに“待っていた誰か”を見つけたことでした。
見届けたあとに残るもの
🌅
それからの数日、柴犬コロはまるで別の犬のように落ち着いていました。
いつもの駅のホームにも立ち止まらず、陽菜のあとをついて村を歩いたり、和馬さんのそばに座ったり――
その姿は、まるで「もう、待つ必要はないんだ」と告げているようでした。
和馬さんは一週間の滞在ののち、静かに言いました。
「コロはもう高齢です。引き取って一緒に暮らすことも考えました。でも……この村で、この駅で、兄を待ち続けた時間を奪いたくない」
陽菜は頷きました。
「コロが、自分の選んだ場所で、生きていけたらいいなって、私も思います」
🌸 春の駅に、咲いた命の証
春が再び訪れ、桜が咲き始めたある朝。
陽菜が駅に行くと、コロはホームに横たわっていました。
静かに、穏やかに目を閉じたまま――
冷たい風も、列車の音も、もう彼には届いていないようでした。
陽菜はそっとコロに近づき、いつものように隣に座りました。
そして、ポケットから出したのは、一枚の手紙。
それは陽菜がコロに宛てて綴ったものでした。
「あなたがいたから、この駅は特別な場所になった。
あなたが待ってくれたから、誰かが帰ってこられた。
ありがとう。ずっと、大好きです」

🌸
村の人々は、小さな手作りの石碑を駅の片隅に建てました。
「柴犬 コロ
ここに、愛を咲かせた」
とだけ、彫られていました。
そして今も、小倉見駅には一冊の駅ノートが置かれています。
その中には、旅人がこう記しています。
「ここには、柴犬がいたらしい。
今はもういないけど、なんだか“いる”ような気がする。
静かで、あたたかい駅でした。」
🐾 そして今、未来へと
数年後。
陽菜は都会の大学を卒業し、教師として故郷に戻ってきました。
そして毎朝――駅のホームで、小さな柴犬と一緒に生徒たちを見送っています。
その柴犬の名は「ミチ」。
駅で拾った迷子の子犬です。
「ミチ、今日も元気に見送ろうね」
子犬は、くるくるとしっぽを振って、陽菜の横で座りました。
ふと、風が吹き抜けます。
それはまるで、コロがまた「ここにいるよ」と囁いているかのようでした。
🌤️
命は終わっても、想いは残ります。
柴犬コロが咲かせた愛の花は、今もこの小さな駅で、誰かの心をあたためています。
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