好きなものや、こだわりがあるもの、執着になりかねないもの。
違いをきちんと感じる、きちんと分かるのは、大変難しいです。
好きなものほど、肯定的にのめり込んでしまうからです。
上質で軽やかで好ましい想いが入口だったのに、いつの間にか、あんなレベルこんなレベルの
念…みたいなものまで動員して、「念だるま」みたいになってしまう。
(端からみたら恐ろしい。)
だから、余計なものを排除して、だんだん、こだわりを洗練していくのが大事と思います。
ところで、執着していたが、はらりと捨てたこだわりの行方や、そこに割いた心は、
どこに消えるのだろうか、と最近なんとなく考えていましたが、
たぶんどこにも消えることは無いのだと思うようになりました。
こだわりを捨てるのはキツい作業ですが、針の一点位の「関門」を通過させ、
捨てれば捨てるほど、姿を変えていくのではないかと思うようになりました。
水が水蒸気に変わるように。
これは人に考えをお伝えしながら思いました。
磨いて捨てて、洗練された分だけ、想いや、あるいはそれに伴うする表現は「見えない美しさ」を増し、
「見えない美しさ」が増すほど、人の心にかぎりなく透明で温かく軽やかに届くようになる。
そしてその表現は、受け取った人の中で、温かく静かに光を放ちながら、存在し続ける。
そもそも、想いの分だけ何かを表現したいという発想は、不自然だと思うようになりました。
意気込みは尊いとしても…。
余計なものを排除して、排除して、磨いて、洗練させて、やがて「それそのものが自ずと人に届くものに変容する」ことを表現とするならば
想いの分だけ人に伝えよう、というのは、一人よがりの自己満足だからです。
だから、表現は苦しくて孤独で、挑戦する価値があるのではないかと思います。
もちろん、人様に対しての挑戦ではなく、自分に対しての、
最高に怖くて、楽しい挑戦。
私たち存在そのものが、表現であり、表現しないで生きていける人なんて、絶対にいないし、
生きることは、表現すること、表現しきることだからです。
どうでしょうかね。
なんかそんな気がしたので日記にしてしまいました。
さあ、ハガキを作ります!☆