もともとこのblogを始めたきっかけに、「女子大生のリアルな信仰ブログ。」というある祝福2世のブログを読んだことがありました。
彼女はそのブログで大学生特有の恋愛に関して祝福2世が直面しがちな悩み事を記事にしていたのですが、私ならどうするかというのは考えさせられたことでした。

大学生の彼女とは違い、私は20代後半のいい歳をした社会人で婚姻適齢期にあります。
ごくたまに教会に顔を出すと、タイミングによっては見合い話を持ち掛けられることもあります。
こうしたなか、生きて行く中での自然な出会いや社会・人との繋がりを大事にするというのが私の基本的スタンスなのですが、つい最近、教会とは無関係の異性を好きになりました(今後どうなるかは未決着)。

かつてブログで見た祝福2世の女子大生の当時の悩みと同じような悩みに直面したため、この記事ではこの度の出来事をきっかけとする私の思索を少し記録したいと思います。

 ✳

自己紹介でも記しましたが、私は一度信仰から離れて再び戻った者です。
信じるのは、神様と、己の良心と直感が肯定する範囲での御言葉です。
真の父母の祝福(血統転換)の意義、すなわち文鮮明がメシアかについては保留状態です。
堕落の実感もあり、血統転換など何らかの方法による性の善化(神側への復帰)については納得するものの、その具体的な方策として真の父母による祝福が成功したか否かは判断仕切れ無いといったところにいます。
したがって、食口としてはモグリであって、教会員では無いと自覚しています。

さて、女子大生ブログの彼女は、未だ相対者の居ない段階で、相対者でない異性に恋愛感情を持つこと自体にそもそも罪悪感を抱いていましたが、私は未婚者・未祝福者の抱く恋愛感情自体は何の悪でも無いと自信をもって言えます(理由については、過去記事「セックスやら自慰やら  祝福2世が悩み考える性の行為規範」を参照ください)。
また、当時の彼女が悩んでいた時期と決定的に異なることは、文鮮明が聖和されたということです。(当人同士が初対面というマッチングはもはや為し得ないでしょう)

御言葉と無関係な異性を好きになってしまった私の主たる悩みは、
①この相手が私の在るべき相手なのか、
②祝福などの儀式はどうすればよいのか、
という二点でした。

まず、①この相手が私の在るべき相手か、という点については何をもって判断すれば良いのでしょうか。(一時期は文鮮明によって決められた相手が、在るべき相手でした…)

私の惚れた相手は、詳述しませんが良いところが沢山ありました。
それらは御言葉で評するなら、為に生きるという事の現れでした。

しかし、彼女は神様を知らず、もちろん信じてもいません。
ただ彼女は、私の信仰が特定の宗教に偏るものでなければ理解することができ、そして、神様を信じると言う私の事を信じることができる、といったスタンスでした。
私の悩み所は、彼女が私の在るべき相手かというものでした。
同じ信仰を既に持っている人間と話したときの伝わり易さや喜びを何度か実感しているため、余計に2世同士の結婚の方が私の在るべき相手との結婚ではないかと思うのです。

しかし、結婚は何のためにするのかと考えると、半分は私の、半分は相手のためにというのが正しいのでしょう。(御言葉の表現だと「結婚は相手のため」となるのでしょうが、全く自分のためではないというのはやや言い過ぎに思います。また、もちろん神様のためにというのも正しいですが、それはお互いの目的が滅私の中において一致すると自然と現れるものに思います)

また、神様を、御言葉を、知らないという事が障害になり得ますが、それは言葉や思想、概念に思索が及んでいないというだけで、人に宿る神様の実体の有無とは関わりの無いことに思います。すなわち、どれだけ御言葉を知っていても、日常生活で愛するべき人間に相応しい愛を持って関わることが出来なければ、そこに神様は顕在されないのであって、逆に、盲目で、聾唖の言葉を解しない者であっても神性を体現できるものです。

すると、私にとって在るべき相手というのも実に変な話で、この人を幸せにしたいと思ったらそれで十分であって(結婚は相手のためにするのだから)、また、惚れる程相手に神性の実体を感じるならば無理に伝導して御言葉や思想の理解を求める必要は無いのだ(重要なのは愛の実践だから)と考え至りました。

ここで、どうしても相手に御言葉や真理の理解を求める気持ちがあるとしたらそれは何かについて考えると、それは一つは迷う相手に指針を持たせるという利他的な目的でしょう。しかし、動機のどこかでは、相手が御言葉を知り、それを信じるようになることで不倫や浮気をされないという安息を私が得たいという利己的な目的もあるのだと感じました。本当に愛する相手であれば、相手がどれだけ堕ちても、救い出したい、助けに行きたいと思うのだと、思います。難しいですが、本当に愛する相手であれば。

では、次に、②祝福などの儀式、ようは「手続き」はどうすれば良いのでしょう。
血統転換という奥義の是非は別として、幸いにも2世は楽な手続きで足りると私は解釈しています。
理念上は、祝福2世が男の場合、この状況は堕落前のアダムの状態であって、神様への報告で足ります。逆に、祝福2世が女の場合、この状況は真の父母により女性側が血統転換された状況と同じで、相手の男性を復帰することで足ります。
具体的にどういう手続きを踏むかはやや難しいところですが、祝福の権能全てが個々の祝福家庭すなわち一世に委譲された今は、親に祝福を受けるという手続きが必要十分な条件に思います。この親による祝福は、手続きとはいえ意義の有るもので、形式的ではない実質的な手続きです。
この点、教会からの祝福を受けることは不要だと、原理主義の立場から私は考えています。
すると、手続きというものも結婚する前に親に祝福を受けるという単純かつ当然のもので、ここには何の障害も無いと考え至りました。

このように考えてみると、何のことはない。
祝福2世の恋愛・結婚は、本当に自然かつ自由で、ただ良識に従えば良いのだと私は考え至りました。

 ✳

本題は以上ですが、やはりこの時勢、問題は婚前交渉でしょう。
これも過去記事「セックスやら自慰やら  祝福2世が悩み考える性の行為規範」を参照ください。

結論だけ申しますと、
結婚を約束していない相手との性交渉は、忌むべき。
結婚を約束した場合でも、親の祝福を得てからであるべき。
結婚を約束した場合に、親の祝福を受ける前に性交渉を行い、結果として結婚に至らなかったという事態は、忌むべき。(良心がき損するため)
前文と同じ場合に、結果として結婚に至った場合、理念的には再度一世と同様な祝福が要ることになりそうですが、やや形式的で硬直的な判断に感じます。

また、セックスにも善と悪の分水嶺があると考えます。
理念的には、神様の臨在するセックスが善、そうでないものは悪です。
神様が臨在するというのは、要は、お互いが滅私の中にあって、神の祝福を願う状態のセックスだと考えます。これは、愛する者同士が子供を望んで行う避妊の無いセックスでなければ出来ないことです。
多くの婚前交渉は、避妊した状態でなされ、避妊を怠り妊娠が発覚した娘が母に泣きつく例がありますが、これは子供を望むセックスでは無いためです。こうしたセックスの(主たる)目的は、お互いの利己的な性快楽にあり、それゆえに神様が臨在することのできないセックスとなります。

こうした善なるセックスの概念を踏まえると、私の究極的な結論としては、
親の祝福を受けた後、子供を望んでなされる性交渉は、婚前交渉であっても是認出来ると考えます。戸籍上の届け出は、祝福などの儀式より遥かに形式的な社会的手続きに過ぎないからです。もっとも、祝福後、子供を望んで性交渉する男女間の実体は夫婦なため、婚姻届けを出す事が普通でしょうから、このような状態が継続する例は机上のものに思いますが。


おわり(帰って来た祝福2世G.L.E)