不安や恐怖と向き合うこと

言葉にすればそれは

とても簡単なことの様に感じる。

しかし自分の感情と向き合うとは

どういうことなのだろう。


向き合うという時

多くの人は

自問自答を選択することだろう。


不安から逃れる方法や恐怖を克服する方法

胸を突き刺す痛みから逃れるために

人は自問自答する。


漠然とした将来への不安

歳をとることに対する恐怖

定職に就けない不安

コミュニティの中で馴染めない不安

誰かにいじめられるのではないかという恐怖

親との関係性から生じる不安

仕事を押し付けられる恐怖


不安や恐怖は様々だ。


人は負の感情から逃れたい。

なぜなら居心地が悪いからだ。


時には胸を突き刺す様な鋭い痛みとなり

この先の人生が真っ暗の様な

救いがない様な

根拠がないことを

本気で思い込んでしまう


そんな時は、良いことには気づかず

悪いことばかりが気になってしまう。


あなたへ微笑みかけた誰かよりも

あなたを憎んでいる誰かのことが気になる。


良いことはいつも起きているが

たった一つの嫌な出来事に夢中になるあまり

せっかくの休日を台無しにしてしまう。


今日はせっかくの休みだ!

あなたに害を及ぼすあの人は目の前にいない!

だけどあの人の言動や表情、来週また意地悪されるのではないか!という想像。

そんなことばかり気にしてしまい

気づけば休日が終わろうとしている。

気分は落ち込んだままだ。



何のために生きているのか。



たった一つの不安が、本人にとっては

人生全体の問題にまで発展してしまう。


本人からすれば

重要なことなのかもしれない。


一つの不安や恐怖に取り憑かれると

人は人生の時間のほとんどを

不安や恐怖と向き合う時間にあててしまう。


この人生には嫌なこともある代わりに

良い出来事も起きているが

不安にばかり気を取られるあまり

良い出来事が起きている事実が

あなたには届かない。


そして、自分の人生は不幸だと感じる。


せっかくの休日に旅行へ行くこともできるが

不安と向き合うために心から楽しめない。

むしろ旅行へ行きたくない。

億劫になる。

家に篭りたくなる。


それを繰り返すうちに全てが嫌になる。




いいかな。

これは誰か特定の人にだけ起きている現象ではない。

あなたにも、あなたの両親にも

隣人のあの人にも、友人にも、職場の上司にも起きている現象だ。

表面上は微笑んでいても、不安に取り憑かれれば誰もがそうなる。例外はない。



さて、向き合うとはこのように

有限な人生の時間を使って

楽しむべき時に楽しめず

時には家に引きこもってまで

行うものなのだろうか。


そこをあなたは疑わないのかね?


無駄なことをしていると

思わないのかね?



そして

もし向き合うということがそういうことならば

これは一生続くのだろうか。


いや

そもそも向き合って答えは出たかね?


あなたは昨日も

その問題と向き合っていたのではないかね?


一日中悩んでいたのに、答えは出ない。


少し考えがまとまって心が晴れたかもしれない。


しかし問題は依然としてそこにあり、何かのきっかけであなたはまた苦しむことになる。


この繰り返しが一生続くとすれば

人が人生に絶望するには十分だ。


しかし、絶望する前に

あなたは疑わなければならない。


向き合うとは、自問自答することなのだろうか。


そもそも向き合うとは何なのだろう。


と。





ー向き合うとは自問自答することではないー






あなたは自分の方法が間違っていることに

気づかなければならない。


向き合うとは、自問自答することかね?


何が正しいかその答えを探すために

あなたは思考を使う。


あれは正しくてこれは間違っている。

私は正しいのであの人が反省するべきだ。


こんな風に自問自答することが

本当に自分の問題と向き合うことなのかね。


昨日も同じ問題で悩んでいたなら

そもそも向き合い方が

間違っていることに気づくはずだ。

にも関わらず気づかないのはなぜか。


その不安や恐怖を

誰かのせいにばかりしているからだ。


向き合うとは、善悪の判断をすることでも

自己を正当化することでもない。

何が解決方法なのか思考を巡らせ

あれこれ考えることでもない。


他人を変えるより

自分が変わる方が早い。


とそんな話をあなたは

何度も耳にしたことだろう。


自分を簡単に変えられるなら

そもそも悩んではいない!!


変えられないから悩んでいるにも関わらず

まるでそれが真実であるかのような結論が

世間には多数存在する。


自分を変えようとするために

自問自答するわけだ。


私はどう変わればいいのだろう?






ー向き合うとは、自問自答することではないー



思考の会話の連続。

言語を眺めていても

物事が解決されることはない。


これは瞑想に長けている探求者にも伝えたいメッセージだ。


言語を眺めていると

せいぜい自問自答が始まるか

または飲み込まれてしまうかだ。


それを黙って眺めていられるのは数えられる位の時間だ。


日常に戻ればまた思考の中に飲み込まれている自分に気づくだろう。


いいかな。

自問自答とは自分の思考を巡らせる行為。


ただそれだけだ。


そこに答えは存在しない。


言語を見る事を止める代わりに


隙間を眺めなさい。


これはゲシュタルトの転換だ。


これまで向き合っていた対象を変えること。


これが向き合うことの真髄だ。



言葉がやってきて、次の言葉がやってくる。


私の悩みはあの人が仕事をしないからだ…

押し付けることばかりして…

どうしたらあの人に責任を持たせられるか…

そもそも私はちっとも悪くない…

あいつがいけないんだ…

今日も仕事行きたくない…

なんであんなひどいこと言うのだろう…




………




隙間は一言一言の間に必ず存在している。


そこを眺めなさい。


大切なことは言葉の中にない。

言語に飲み込まれてはいけない。

答えの出ない問いを一生続けてはいけない。


あなたは右手に針を持っている。

この世界に妖精がいたとすれば、この針の上にどれほど乗ることができるだろう。


あなたは毎日、これと同じ様に

答えの出ないことを自問自答している。


不安や恐怖、その内容の重みは関係ない。


答えが出ないことを

論理的に分析的に

ひたすら無理に出そうとしている。


しかし

自問自答することで得られる答えはない。


自問自答で得たと思った答えを

一生持ち歩けると思うかね?


せいぜい一年後に別の悩みに

囚われている自分を見つけるだけだ。


思考が物事を解決することはない。

物事を分析することはできても

答えを出すことはできない。


なぜなら、思考とは単にそういうものだからだ。


思考を否定しているのではなく

思考にできない事をさせる

それがそもそもの間違いだと気づきなさい。


向き合うとはギャップを見つめること。

言語から非言語へ。


ここに自分と向き合う事の

全ての極意が詰まっている。


いいかな。

本気で取り組んでみることだ。


この事が真実なのかどうか。


実践すれば必ず答えは出る。