今回の地震、何でも観測史上最大のマグニチュード8.8を記録したことや、また映画でしか見たことのないような津波が各地を襲ったことなどの影響で、被害の様子や現地の避難状況なども、まだ正確に把握できてないのでしょう。


そんな過酷な環境の中で、救助・支援にあたられている自衛隊や警察の方々、寝ずに取材・報道を続けておられるメディアの方々、そして対策を協議しておられる政府・役所の方々には、ただただ頭の下がる思いです。


しかし、同時にそのような援助の動きは他の場所でも見られます。例えば、既にアメリカや韓国など多くの国から救助部隊が日本に駆けつけてくれていますし、トルコは100億円相当の援助を行うようです。また、市民レベルでも様々な応援メッセージがネットを通じて寄せられています、ありがたいことに。



そして、今回僕が注目したいのは、日本国内における市民レベルの動きです。Twitterやその他のSNSを通じて、多くの個人が、「自分にできることはないか!?」、「今はどんな状況で、何をすべきなのか!?」といったことにアンテナを張り、実際に援助のためのプロジェクトを計画・実行している人々もいます。


このような動きを見て、僕はM教授の授業を思い出しました。その教授はある講義で、日本のNGO(や圧力団体)について以下のような話をしました。


そもそもNGOなどの市民セクターは、国家(国家によって供給される資源)‐市場(市場いよって供給される資源)‐コミュニティ(コミュニティによって供給される資源)の三つによってカバーされない領域に存在する資源供給のために存在する団体のことです。


そして、そのような団体が日本においてどのような活動を行っているのかを調べたのがJIGS調査と呼ばれる調査で、M教授はそれに参加した研究者の一人なのです。この調査は1997年と2006年の二度にわたって行われました。


第一回目の調査(JIGS1)は、1995年の阪神淡路大震災の直後にNGOなど市民団体の活躍が見られたことをきっかけに始まりました。その時には、全国からボランティアが駆け付け、行政などとともに、一般市民の活躍が大きくメディアなどで取り上げられたのです。


この第一回調査で分かったことは、しかしながら、日本の市民団体の古さ・未熟さでした。


アメリカやドイツ、あるいはブラジルなどの各国では1980年ごろ以降から団体(市民団体に限らない)の数が増加し始めました。その理由は、冷戦の終結や経済成長に伴う社会構造の変化に対応するためであったと考えられています。


一方、日本の結果はそれらの国々とは異なります。日本の場合、戦後直後に団体が増加した後、その数はほぼ横ばいでした。つまり、新たな団体は殆ど設立されてこなかったということです。


加えて、団体の性質にも注目すべき点があります。海外の比率はわからないのですが、日本においては生産セクターに関係する団体や行政に関係する団体(それはしばしば天下り先になる)の割合が多く、いわゆる市民団体は少なかったのです。


これらの結果から、阪神淡路大震災後の市民の活躍は、他の3セクターの機能不全を補うための一時的なものであり、強固なものではないということです。


幸運なことに、このネガティブな傾向は、第二回目の調査では改善しました。つまり、市民団体が新たに創設され、影響力を行使しつつあることが判明したのです。



以上のことをベースに今回の災害やそれを受けての反応を見ると、今回も阪神淡路大震災直後と同様に、救援・復旧における市民の貢献は見られるのでしょう。当時よりも団体の数やその質も向上しているでしょうから、前回以上によい働きがなされるかもしれません。


しかし、より重要なのは、そのような社会への関心・働きかけを持続させることだと僕は考えます。


今回被災された地域を見ても、本当に大変なのは世間の注目も無くなり始めた復興の時期かもしれないし、他のことに目を向けても、いま現在困っている人は山ほどいる。僕たちは、こういう非常時にだけ他人をおもいやるんじゃなくて、もっと普段から社会に目を向けて、考えて、行動した方が良い。もしそういう助け合いの美風のある社会・個人・市民を作る、あるいはみんながそうなろうとするきっかけになったんなら、今回のこの悲劇にいくらかポジティブな要素を加えることができるはず。


そうなることを僕は願うし、僕自身そのために努力したいと思う。




最後に、被害にあわれた方に心からのお見舞いを、亡くなられた方には心からの哀悼を…

一刻も早く、みんなが楽しく笑える日が訪れることを待ち望んでいます。

枕詞とは何か?


ウィキペディアには「主として歌に見られる修辞で、特定の語の前に置いて組となり、語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のことである」とあります。加えて、初期の段階では、枕詞と対になる語は、人々の尊敬や賛美、あるいは畏怖の対象となるものであった、ということも押さえておいてください。例としては、ちはやぶる→神、ひさかたの→光、たらちねの→母などがあります。因みに因みに、「たらちねの」は垂れ乳を意味しているようです。中学時代に習ったことを鮮明に覚えている僕は、今も昔もスケベですね。


ここで、実際に歌の中で使われる草枕を見てみましょう。「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」。この歌で使われている枕詞はもちろん「草枕」で、これは「」などにかかるものです。意味は、ざっと「都にあれば器に盛る食べ物であるが、旅の途中なので椎の葉に盛ることしかできない」といったところでしょうか。ここであなたはあることに気づくはずです。そう、枕詞は訳されないのです。


以上から察するに、枕詞それ自体に意味はないのでしょう。しかし、一見ムダとも思えるその存在が、後に或るとても重要な言葉を導きだしたり、歌全体の語調や情緒を調整するのです。そのためだけに、昔の人は五・七・五・七・七という計31文字の約16%にあたる大切な5文字を費やしたわけですね。


もちろん、僕は何も枕詞について解説したいわけではありません。そこから一種の生き方を考えようとしているのです。つまり、「ムダなことなんて無いじゃん」って姿勢です。もっと言うと、「僕たちは5文字分のムダを敢えて経験した方が良いのかもしれないねっ」ってことです。なぜなら、そのムダが後々、とても重要な結果や何かをもたらしてくれるかもしれないからですし、また、人生のムダな経験が、全体として見ると、人生を滑らかで彩りあるものにしてくれるかもしれないからです。ちょうど、それ自体は何も意味しない言葉が結果として重要な役割を果たしているように。


なんて完っ全にムダなことを考えて、書いているうちに、今日も夜が更けます。この文章はどこにも行きつきません、絶対に…


ごきげんよう

The more I consider, the more I become anxious about my future: the more I act, the more I become confident about my possibilities. This is why I prefer to act.


However, this principle contains at least one problem in that it confounds means with the end. In my opinion, there's no such voyage without a destination. In other words, there must be a destination. If no goal, you don't have to use a chart or a compass: or rather, you don't have to go to sea in the first place. If you have your own goal, you try to go there by using those means.


What do a chart or a compass represent in the real world? They represent, for example, learning English (or other languages), studying political science, and fostering the ability to think logically. These things are the means that guide me to the place where I finally want to be. Yet, I haven't decided "the place". Then, is it worth for me to use these means, or to acquire them?


I, of course, have a dream, a vogue dream. The problem is it is too indefinite to be called a future dream. I don't know what exactly the dream means, i.e. role contents or responsibilities: I don't know what to do, either, because I have been avoiding to consider about these matters. Therefore, it is no wonder that i don't know these matters.


It is required for me to make necessary changes. Now is the time, Let me place myself in a anxious situation, believing this is the longest (and therefore the nearest) way that will lead me to "the place", my final destination.

今後の学習・生活について。



とりあえず、英語&フランス語は毎日コツコツ勉強しよう。


もうTOEFLとか、そういう資格(?)のことは考えないで良いし、


もっとプラクティカルな感じのんを伸ばしていく。


これが一つ目。



二つ目は、授業で紹介される参考文献を読む。


これはGPAの面から考えても良いものとなるだろうし、


もし留学に行けたことを考えても、突然の課題増加に


そこまで戸惑わなくなるんじゃないかな~って思う。


とても良い習慣に思えるね、やっぱり。



三つ目は、毎週一度は酒を飲む。


これはメリハリのある生活を送ろう、っていうことを


少し比喩的に表現したものなんだけど、


要は"Thanks God, it's Friday!!!"ってことですよ。



その他には...今もやってる軽いエクササイズは続けて


時には友達とバスケやスケボーを嗜むって感じで。


かるーく、ゆるーく運動もしましょう。




以上、ポリアーキー読もっ。


あー完全に行き詰ってる。。。

もう本当に何がしたいのやら、てな感じだ。


いや、正確に言うと、

やりたいこと自体は確かにあるんだけど、

そこにたどり着くまでのモロモロとか

その後のモロモロとかを考え始めると、

どうも最初の一歩がすごく重くなっちゃう。


これは憂慮すべき性向だと言えるだろうな。



うーん、どうしたもんかねぇ。



とりあえず今ある課題を列挙すると、


1.留学関係の書類をそろえる

2.秋学期の履修を選択する

3.寝不足を解消する(!?)


だけしかないのだから、

比較的シンプルな環境にいるはずなのに、

その前後のコンテクストが絡み出すと

複雑さ・面倒さが急増することに...


要は、いろいろ計画せなアカンくなる。


言っちゃえばただそれだけだけど、

それを突き詰めて考えられない。


なぜなら、先のことなんて知ったこっちゃない

って考えている部分があるから。



でも本来なら、まず先のことを考えて

そっから逆算的に目標設定っていう順のはず...


エッセイでも、何でもそうだけど、

やりたいことの方向性が大体でも見えれば

やるべきことは自ずとわかるものね。



「千里の道も一歩から」は正論だけど、

その一歩を踏み出すのは、

しっかりとしたヴィジョンを持ってからでないと

全く違った場所へ歩くことにもなりかねない。


そう、まず目標ありきなんだ。


いつまでもフラフラしてられへんでっ。

まず初めにだな、このブログの目的は、


あくまで今後の自分のためのメモであり、


誰かに発信するためのものではないんだ。


少なくとも今のところは。



だから、ココに書くことは、自然と


内省的で、かつ現状に即したものに


なっていくんだろうな、と思う。


だから、あまり面白くはないはずだよ、


少なくとも今のところは。




さっそく今日の本題に入ろう。



いま僕は大学二年生の夏休みというものに


どっぷりと浸っている訳だけれども、


それはつまり、学生でいられる残り時間が


あと二年半しかないことを意味している。


だけど、僕は留学だってしたいし、


あるいは大学院にだって行きたい。



そんな状況の中で考えるのは、


あと二年半だなんて期限を決め付けずに、


好きなことをやってやろうってことだ。


幸い、両親だって理解を示してくれているしね。



ただ、そうするからには、将来それなりの


結果とかが求められるようになるだろう。


でも、努力したら大抵のことは実現する。



早め早めに目標を設定し、地道に努力する。


それが僕の残りの大学生活だ。


あと、少なくとも、二年半もある。




"Reserving judgements is a matter of infinite hope."


by Scott Fitzgerald