今にいかせ三島由紀夫8 佗・寂
一般的に、質素で静かなものを指す。
本来佗(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。
龍安寺方丈庭園(石庭)。
ここは曇っていてはだめだ。
強い陽射しではない明るい日の中で観る古茶けた塀にこそ侘びを表象し、その塀の微妙なる色合いの変化こそが、この庭の凡てである。然びたる石庭そのものも造りは素晴らしいが、塀の色合いに勝ることはない(森神逍遥 『侘び然び幽玄のこころ』)。
兼六園の茶室、夕顔亭。
わび茶で使われる茶室は、一般的に写真のように周りに木や竹を生やし、茶室以外の世界から断絶させる。
数名が茶を点てて飲むためだけのために設計され、通常、他の建造物からも隔離させて建てる。
建材も自然の状態のまま、塗装などをあまりしないものを多く用いる。
慈照寺庭園と銀閣
黒楽茶碗 銘尼寺 17世紀 東京国立博物館蔵
佗(わび、佗びとも)とは、「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」を言い、動詞「わぶ」の名詞形である。
「わぶ」には、「気落ちする」「迷惑がる」「心細く思う」「おちぶれた生活を送る」「閑寂を楽しむ」「困って嘆願する」「あやまる」「・・・しあぐむ」[3]といった意味がある。
本来は、いとうべき心身の状態を表すことばだったが、中世に近づくにつれて、不足の美を表現する新しい美意識へと変化し、室町時代後期に茶の湯と結び付いて急速に発達し、江戸時代の松尾芭蕉がわびの美を徹底したというのが従来の説であったが、歴史に記載されてこなかった庶民(百姓)の美意識を説こうとする説が発表された。
佗に関する記述は古く『万葉集』の時代からあると言われているが、「佗」を美意識を表す概念として名詞形で用いる例は江戸時代の茶書『南方録』まで下り、これ以前では「麁相」(そそう)という表現が近いが、千利休などは「麁相」であることを嫌っていたから必ずしも同義とは言い難い。
「上をそそうに、下を律儀に(表面は粗相であっても内面は丁寧に)」(山上宗二記)。強いて言えば「priceは高くないが、qualityは高い」という概念になろうか。
茶の湯では「佗」の中に単に粗末であるというだけでなく質的に(美的に)優れたものであることを求めるようになったのである。
この時代、「佗び」の語は「佗び数寄」という熟語として現れる。これは「佗び茶」の意ではない。
侘び茶人、つまり「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(宗二記)のことを指していた。
「貧乏茶人」のことである。後の千宗旦の頃になると「佗」の一字で無一物の茶人を言い表すようになる。ここで宗二記の「佗び」についての評価を引用しておこう。
「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」とあるから「佗タ」は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。
この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。ただし宗二は「佗び数寄」を評価しているから、侘び茶人が茶に親しむ境地も評価され、やがて茶の湯の精神を支える支柱として「佗び」は静かに醸成されていったのである。
佗は茶の湯の中で理論化されたが、「わび茶」という言葉が出来るのも江戸時代である。特に室町時代の高価な「唐物」を尊ぶ風潮に対して、村田珠光はより粗末なありふれた道具を用いる茶の湯を方向付け、武野紹鴎や千利休に代表される堺の町衆が深化させた。
彼らが「佗び」について言及したものがないから、彼らが好んだものから当時醸成されつつあった侘びについて探るより他ない。
茶室はどんどん侘びた風情を強め、張付けだった壁は民家に倣って土壁になり藁すさを見せ、6尺の床の間は5尺、4尺と小さくなり塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は備前焼や信楽焼きを好んだし、利休は楽茶碗を創出させた。
日常雑器の中に新たな美を見つけ茶の湯に取り込もうとする彼らの態度は、後に柳宗悦等によって始められた「民芸」の思想にも一脈通ずるところがある。
江戸時代に多くの茶書によって茶道の根本美意識と位置付けられるようになり、佗を「正直につつしみおごらぬ様」と規定する『紹鴎侘びの文』や、「清浄無垢の仏世界」とする『南方録』などの偽書も生み出された。
また大正・昭和になって茶道具が美術作品として評価されるに伴い、その造形美を表す言葉として普及した。
柳宗悦や久松真一などが高麗茶碗などの美を誉める際に盛んに用いている。その結果として、日本を代表する美意識として確立した。
岡倉覚三(天心)の著書The Book of Tea(『茶の本』)の中では“imperfect”という表現が佗をよく表しており、同書を通じて世界へと広められた。
寂(さび、寂び、然びとも)は、「閑寂さのなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ」を言い、動詞「さぶ」の名詞形である。
本来は時間の経過によって劣化した様子を意味している。漢字の「寂」が当てられ、転じて「寂れる」というように人がいなくなって静かな状態も表すようになった。
さびの本来の意味である「内部的本質」が「外部へと滲み出てくる」ことを表す為に「然」の字を用いるべきだとする説もある。
ものの本質が時間の経過とともに表に現れることをしか(然)び。
音変してさ(然)びとなる。
この金属の表面に現れた「さび」には、漢字の「錆」が当てられている。
英語ではpatina(緑青)の美が類似のものとして挙げられ、緑青などが醸し出す雰囲気についてもpatinaと表現される。
「さび」とは、老いて枯れたものと、豊かで華麗なものという、相反する要素が一つの世界のなかで互いに引き合い、作用しあってその世界を活性化する。
そのように活性化されて、動いてやまない心の働きから生ずる、二重構造体の美とされる。
本来は良い概念ではなかったが、『徒然草』などには古くなった冊子を味わい深いと見る記述があり、この頃には古びた様子に美を見出す意識が生まれていたことが確認される。
室町時代には特に俳諧の世界で重要視されるようになり、能楽などにも取り入れられて理論化されてゆく。
さらに松尾芭蕉以降の俳句では中心的な美意識となるが、芭蕉本人が寂について直接語ったり記した記録は非常に少ないとされる。
佗びとともに利休以後の茶道の真髄として語られる寂びだが、意外なことに利休時代の茶の文献には見当たらない。
「佗び」の項に挙げた山上宗二記の侘びの十ヶ条にも寂びは見られず、同書の他の部分にも「寂び」「寂びた」の語は現れない。
おそらく江戸時代以降、俳諧が盛んになり寂びの概念が広がるとともに、佗びと結びつけられて茶道においても用いられることになったものであろう。
俳諧での寂とは、特に、古いもの、老人などに共通する特徴のことで、寺田寅彦によれば、古いものの内側からにじみ出てくるような、外装などに関係しない美しさのことだという。
具体的な例で挙げられるのは、コケの生えた石がある。誰も動かさない石は、日本の風土の中では表面にコケが生え、緑色になる。日本人はこれを、石の内部から出てくるものに見立てた。
このように古びた様子に美を見出す態度であるため、骨董趣味と関連が深い。
たとえば、イギリスなどの骨董(アンティーク)とは、異なる点もあるものの、共通する面もあるといえる。
寂はより自然そのものの作用に重点がある一方で、西洋の骨董では歴史面に重点があると考えられる。
ウィキペディアからの引用です
Quotation from Wikipedia