決行と自決
 

 

1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如益田兼利総監を人質にして籠城バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。
 
45歳没。
 

決起当日の朝10時30分、担当編集者の小島喜久江は平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「天人五衰」の原稿を渡された。

編集部に戻って原稿を見ると、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた。

 

この11月25日という決行日については、昭和天皇が摂政に就いた日であることと、天皇が「人間宣言」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「」を復活させようという意味があったと考察する研究や、三島が尊敬していた吉田松陰の刑死の日を新暦に置き換えた日に相当するという見解もある。

 

また、11月25日は、三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉として発表した『仮面の告白』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体し、〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある。

 

この日、細川護立の葬儀のため東京に居た川端康成は、三島自決の一報を受けてすぐに現場に駆けつけたが、遺体とは対面できなかった。

呆然と憔悴しきった面持ちの川端は、報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた。

三島の家族らは動転し、瑤子夫人はショックで寝込んでしまった。

 

 

今にいかせ 三島 由紀夫、3:佐藤別邸からの人物背景 

 

 

三島由紀夫は、横光利一と川端康成は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「天性」を持った作家であったが、横光は苦闘し、その天性の感受性をいつからか「知的」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「地獄」「知的迷妄」へと沈み込み、自己の本来の才能や気質を見誤ってしまったのに対して、川端は、「もつとも知的なものに接近した極限の作品」である『禽獣』で、その「地獄」をのぞき、寸前でそこから身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している。

 

よって『禽獣』は川端にとり、分かれ目になった作品であり、「それまで感覚だけにたよつて縦横に裁断して来た日本現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形」を、川端がそこで初めて直視しているという意味で、それが重要な作品であり、ある意味で川端は「実に抜け目」がなく、「俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた」と評している。

 

 

ウィキペディアからの引用です
Quotation from Wikipedia

 

 

 
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