今にいかせ 三島 由紀夫、2 
 
 
 三島 由紀夫

1925年(大正14年)1月14日東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生。

 

体重は650(約2,400グラム)だった。

公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者古市公威にあやかって付けられた。

 

家は借家であったが、同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生下男が居た。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった。

兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生れた。

 

父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。

岸信介我妻栄三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった。

 

母・倭文重(しずえ)は、加賀藩藩主前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父親(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者橋健三

 

祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。

帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。

1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪判決)。

 

祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。

 

夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志

なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田国男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった。

 

作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。

 

公威は、荷風の風貌と似ている父・梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。

ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。

 

祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代に渡って同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。

 

江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、三島家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。

幼少年期――詩を書


三島6歳。初等科入学の頃(1931年4月)

公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。

 

公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重授乳する際も、懐中時計で時間を計った。

 

夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法も厳しかった。

 

公威は物差しはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられ。

 

夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。

1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。

 

病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。

その一方、歌舞伎谷崎潤一郎泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。

 

1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。

公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた。

 

平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり、夏子の伯父・松平頼安上野東照宮社司。

 

三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった。

 

しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行してゆく中、校内も硬派が優勢を占めていた。

級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。

 

初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。

 

その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。

春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。

— 三谷信「級友 三島由紀夫」

 

公威は初等科1、2年から俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。

 

読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明鈴木三重吉ストリンドベルヒ童話北原白秋、フランス近代詩、丸山薫草野心平の詩、講談社少年倶楽部』(山中峯太郎南洋一郎高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読する。

 

自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られた。

 

初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一先生から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。

 

主治医の方針で日光に当ることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可燃(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった。

 

初等科6年の時には校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷信は目撃した。

 

その時、公威は即座にサッとズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫った。

 

それは揶揄った側がたじろく程の迫力で、濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、貧弱な体に比べて意外と大きかったという。

 

この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。

急遽授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。

 

6月には、〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた。

1937年(昭和12年)、中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い、祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。

 

夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。

 

公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。

 

中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。

 

以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。

11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎ラディゲなども読み始めた。

 

7月に支那事変が勃発し、日中戦争となった。

この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ。

 

初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。

 

目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。

『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている

 

「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。

「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。

 

おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。

 

私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。

三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。

このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。

— 坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」

 

ウィキペディアからの引用です
Quotation from Wikipedia

 

 
 
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