華夷秩序からの離脱の先に
先週は、木曜日に「古事記神話を学ぶ会」、土曜日に「古事記神話の語り部となる会」に立て続けに参加して参りました。ええ、古事記祭りでした。講師はいずれも伊藤八郎先生で、「古事記神話入門」(光明思想社)というご自身の著書にもとづいてお話を進められました。(ちなみに「…学ぶ会」に参加しますと、Amazon等で¥1,851のところ¥1,000で入手できるようですのでお得です♡)主催は異なりますが、それぞれ月一回の会ですので、扱うテーマはほぼ同じ(伊耶那岐命と伊耶那美命の国生み)でしたが、後者の方がより突っ込んだお話が聞けて、理解が深まりました。たまたま「…学ぶ会」にはゲストが招かれておりまして、余った15分ほどの時間お話が聞けたのですが、これがまた非常に興味深い内容でしたので、また日を改めてご紹介します。こないけったいな人がおったんや!というのが正直な感想です。なお、いずれの会も、次回は7月開催ですが、当ブログでも過去に取り上げた「黄泉国(よみのくに/よもつくに)」がテーマとなります。きっと興味深いお話が聞けるものと思います。さて、本日は華夷(かい)秩序から離脱し、自主独立をめざした古代日本がテーマです。冊封(さくほう)体制、ということをお話するとき、注意しなければならないのは、チャイナと各国の関係は、力関係や地理的条件などによって、一様ではなかったということです。チャイナにとって、朝貢国が増えることは皇帝の徳を高めることに繋がった一方、「回賜(かいし)」、つまり献上された貢ぎ物の見返りとして与えられた宝物は、貢ぎ物の数倍の価値があったと言われ(宗主国の威光を示すためですね…メンツを重んじる文化の起源はこのあたりにあるでしょうか)、チャイナの台所事情を圧迫したようです。したがって、冊封された国は本来、毎年朝貢する義務があったにも関わらず、頻度が制限されたらしいです。どうですか。冊封体制というと何か重苦しく強固なイメージがありますが、ちょっとユルい感じもしますね。実際、周辺国の中にはチャイナの支配に服しない国も存在していましたし(漢の武帝時代の匈奴など内陸国に多い)、チャイナとしては力で屈服させられなければ、無視せざるをえなかったようです。くみし易いところは威圧するが、手強ければ手を出さない、これって今も昔も変わらない感じですね。このことは肝に銘じておく必要があると思います。周辺国の国力やその他条件(地理的なもの、チャイナの国内事情など)によっては、チャイナの権威が絶対的であったわけではなく、おそらくは周辺国も、相対的な力関係の中で、国益のために利用できるものは利用しよう、そういう判断をしていたのではないでしょうか。五世紀頃の倭の五王も、朝鮮半島への影響力を確固たるものにするために、宋の皇帝のお墨付きが必要だったのでしょう。国内の統一が進み巨大古墳を造営していた頃とは言え、まだまだ自力で半島に影響力を行使できるほどではなかった。しかし冊封自体にその価値がなくなったとき、自主独立の機運が高まり、いかに対外的に認められる国力をつけるか、そういう視点から国家建設に取り組むようになったと考えられます。まあ、当時のチャイナから見れば、国力では相手にもならない絶海の島国など、軽んじられて当然だったでしょうね。しかしそうした中華思想・華夷秩序にひるむことなく、大帝国隋に真っ向メンチを切ったのが、皆さんご承知の聖徳太子です。この続きは次回。