私達が、毎日使っているの言葉の原型は、いつごろ出来たのでしょうか?

この疑問は、『言語学』という専門分野で研究されています。




わが国の言葉は、まとまったものとして、奈良時代初頭の『古事記』『日本書紀』が最古の文献と考えられています。これ以前の「古墳,弥生、縄文」時代の資料は、ないと考えるのが普通です。そのため、『言語学』の視点でも、言葉の創作法、語源などがはっきりしないのです。

 ところが、存在しないと考えられてきた「縄文、弥生、古墳」時代の言語資料は残されています。いまは消されるだけの宿命を負わされた、現代の「地名」にそれが継承されているのです。


地名、とくに古代につけた地名は、地形表現を基本に置きました。ここが大切です。いまは『地質学』『考古学』の発達により、縄文、弥生、古墳時代の地形変化の概略は、地方ごとに復元されています。地形表現を主体に命名した地名が、現代の地形に合わない例はどこにでもあり、復元地形を参照して、地名が表わした地形がどの時代にあったかを探索できるのです。




 顕著な例が自然現象の温暖化で、大気温度が今より23℃上がり、海水面が35m上昇した約6,000年前の縄文時代前期(縄文海進)の時代に、字名の「島、崎」地名が実際の島、岬であった事実が認められるのです。さらに、弥生時代の地名は、同じ種類の地名が西日本地方にかたまる性質があります。


 古代の地名の基本特性を基にした命名年代の探索と共に、各地名の音数の変化、地名の語源の検証を行なうのが『地名考古学』です。いままで誰も考えなかった手法を駆使して、倭語の基本構造を探求したのが、ホームページ『日本語の源流をたどる』です。

 このブログは、ホームページの「1.地名考古学」「2.縄文・弥生の地名」「3.倭語の法則」の要点だけを抜き出した紹介文です。5万分の1地形図から収集した『地名資料』の集計・分析を基にして立てた、様々な仮説の立証は、ブログでは扱えないので割愛しました。

古代エジプト、メソポタミア文明と同時代に使われていた言語が、現代に生き残っている奇跡を、沢山の方々に御理解、証明して頂くことが、私の願いです。

















 わが国の『地名』は、たいへん不思議な存在です。



私たちが会話をするとき、「いつ、どこで、誰が、何を、どのように、なぜ」という疑問代名詞を根底におきます。英語はここに「WhenWhere, WhoWhatHow, Why」を使うため、「5W,1H」の文章表現の基本要素とされ、この中の「どこ」の場所かを表わす言葉が『地名』とよばれる固有名詞です。ふだん意識することなど全くありませんが、現代の生活を営むうえでも、地名は大切な役割を担っています。

世界のなかの「日本。Japan」はアジア大陸東端にある島国をさし、「東京都、大阪府、福岡県」は、ここに所在する行政組織の一区画を表わしています。都道府県には市区町村があって、この区画は大字・小字名に細分されます。

交通機関を利用するときの「東京、新大阪、博多」駅、「羽田(東京)、伊丹(大阪)、板付(福岡)」空港の重要度や、会社の業務、日々の暮らしをみても、地名が生活に絶対不可欠な要素であることが理解できます。

もし、地名〈「あ、い、う、え、お…」「123…」などの原初的な記号を含む〉がなかったとしたら、どんな状況になるでしょうか。

まず国、都道府県、市区町村の区分がなくなり、この組織の財源にする税金が会社名と人名、地名を基本におく戸籍をもとに徴収されているので、官公庁自体が存続できません。

同じ状況は、水道・電気・ガスの公共施設、郵便・電話などの通信機能、新聞・ラジオ・テレビ等の報道機構にもあてはまり、鉄道・道路・航路・空路の交通機関は地名そのものを主体に運営されていますので、地名を排除すると、公共・公益機関をはじめ、社会全体が機能不全に陥ります。

さらに、私達の苗字の7割位が地名から採られていますので、生活そのものが『地名』に依存していると言って過言ではありません。この様相は、人間社会一般の現象ですから、古代…縄文・弥生時代…にも同じ様相が考えられます。

 ところが、これほどの重責を担う『地名』の、本格研究は行なわれていないのです。

それどころか、おそらく千年以上、大切に継承されてきた地名が簡単に廃棄され、現代風の幼稚園レベルの記号に置き換えられ続けています。この事実は、約3,250から1,700へ市町村数を半減させた『平成の市町村大合併』で体験したばかりです。

 地名がゴミのように扱われる原因は、この固有名詞がどのような意図をもって命名され、いつごろ付けられたかが解明されていないためです。ここを考えてみたい、というのが、本ブログのテーマです。

 昭和時代後期の1970年代に存在した地名を集計した『地名資料 Ⅱ~Ⅴ』を分析して、ホームページ

『日本語の源流をたどる』 で提起した、「縄文時代、弥生時代」の言語活動の一端を発掘した,

『地名考古学』の概要をお話ししましょう。




いまでも、『地名』は、意味を解くのが難しいものの一つにあげられています。

自国語で地名を解けない、という不思議な現象は、なにか特別な事情が隠されている感じがします。ここには、ある時代に、表面的な言語は引き継がれたが、地名や言葉の意味と、創作方法が継承されなかった事態を考えてみたくなります。

このブログの原点、ホームぺージ『日本語の源流をたどる』 では。この断絶の時代を、朝鮮半島の「伽耶(カヤ)、百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)、高句麗(コグリョ)」から大量の渡来人が移入して、この国の政治、文化を大きく変貌・発展させた5世紀から7世紀と推理しました。

7世紀後半から8世紀にかけて、渡来系の人を中心においた政府が、唐を見習った『律令政治』を行ないました。ここには、文字を使った木簡・書籍が登場し、倭語に漢字をあてた言葉が大量に生まれました。

ところが、『倭語:縄文時代からの言語』には、一字で二音以上を表わす漢字を受け入れない要素があったのです。最初に倭語へ当てた文字が、一字一音の『万葉仮名』であったことも、この史実を暗示しています。弥生時代には、倭語の構造と意味が充分に理解されていたようです。しかし古墳時代後期以降に、どの言葉にも漢字をあてた文書が現われたために、倭語の基本構造が解らなくなった、と推理できます。

一例をあげると、和銅5712)年に成立した『古事記』崇神天皇の四道将軍派遣の項に、地名への「こじつけ解釈」の有名な例が載せられています。

泉(京都府木津川市木津)の地名は、二つの軍が挑みあったために「いどみ」とつけられて、後に「いづみ」へ変化し、「くすば:大阪府枚方市楠葉」は、激しい戦闘中に糞が袴についたから「糞袴→久須婆」、これらの兵士を斬り屠って「波布理曾能→京都府相楽郡精華町祝園(ほうりその)」、敗残兵の死体が河の上を鵜のように浮かんでいたので、川の名が「鵜河:比定地不明」、また、大毘古命は、息子の建沼河別と会った地を「相津:福島県会津若松市」と名付けたと記しています。

この地名説話の半分は、『日本書紀』崇神紀に載せられていますので、奈良時代より前の伝承とも考えられそうです。

 この解釈を素直に信じる人はいないと思いますが、いまでも、これらの地名の意味は解き明かされていません。でも、基本語の「泉」くらいは解いておく必要があります。

解釈法は、現代音の「いずみ」や古語の「いづみ」でなく、清音の「いつみ」を原型に想定して、『掛け言葉、逆さ言葉』を利用すると、「泉」の意味が浮かび上がります。

「泉:ItumiItu. 出;出る+tumi. 積み、詰み⇔mitu. 水=湧水」が応用例ですが、さらに古形の「ItsumiItsutsumi. 隅,澄み」には、崖端などから湧き出る「清らかな水」という、見事な造語法が認められます。

二音節の動詞を二つ以上重ねる創作法が、日本語の原型であり、創案は約6,000年前の縄文時代早期に溯り得るものです。縄文の人々の自然観察眼の鋭さと、話し言葉を中心において複層構造を採った簡潔な言葉の創作法は、現代が学ぶべき様式です。証明には沢山の地名・言葉を提示して、様々な角度から検証する必要がありますので、HP『日本語の源流』で行ないました。

とりあえず、本ブログでも、この仮説を基本に置いて話をすすめましょう。