昨年発表されてすぐに読み、それに続き2読目。
先日BOOK3が発売されて好調に売れているみたいですが
それを読む前に再度じっくり読んでおこうと思いました。
 
1冊500ページ以上、計1000ページを超える長篇ですが一気に読ませるのはすごいです。
途中「だれる」ところが無い。「次はどうなるのだろう?」と言う期待感でやめられない。
1読目はそういう勢いで筋を追う感じで読んでしまいましたが
今回はじっくり読みました。
 
物語の舞台はは1984年、そしてその世界とある部分は重なり、別の部分はわずかにずれることで
微妙な干渉縞を描くかのような異世界1Q84年。
2つの世界の境界は曖昧で、しかも1984年は私たちの経験した1984年とも微妙に異なっています。
(準主役の『ふかえり』は17歳、私とほぼ同年代ですが当時の懐かしさは感じません)
さらに2人の主人公「天吾」「青豆」の物語が1章ごと、交互に語られます。
 
細部まで緻密でしっかりした存在感を持つ作品世界ですが
さまざまな謎、説明されない暗示がたくさん残されます。
人によってはそこに欲求不満や更には「未完成」を感じる場合もあるかもしれません。
 
  推理小説は伏線やトリックをきちんと解決することが求められます。
  学術書は「1+1=2 f=ma」といった世界の決まりを明確に説明します。
 
それではこの小説は何をしたいのか?
 
作者が表現したいことは
「説明できないこと、ありえないこと、矛盾」
でしか表現できないのではないか。
 
作中で作家志望の天吾が小説のリライト、推敲をするシーンが出てきます。
不必要な部分は徹底的に削り、言い足りない部分は補い、
リズムを整え、その作業をモニター上とプリントアウトした紙上で何度も繰り返す...
そういうシーンです。
 
つまり、「1Q84」は(もちろん以前のほかの作品も)
そういった、いやもっと念入りな書かれ方をしている、
と作者は言っているのだと思います。
1文1語たりとも不用意な表現は無いはずです。
だから私たちが疑問を挟む余地は無い。
 
座標軸の変換。
自分本位の軸から小説世界基準へ。
一見して矛盾していて無意味な事が
実は必要で重要であるとしたら、という思考の変換。
 
 
私たちが暮らしている現実世界も多くの暗示で満ちています。
そこからストーリーを紡ぎ出すことは私たちにとっては難しい事ですが、
別の、何らかの方法でそれを受け止めて表現することは
やらないではいられないし、皆やっていると思います。
本を読み、考えると言うこともそのひとつだと思います。
 
 
村上作品は「善い力」を持っている、と思っています。
 
村上氏は
自己治癒行為、
生きていくためのギリギリの闘い
(もちろん金銭的な意味ではなく)
 
というくらいの意味合いで表現し続けていると思います。
 
それが読者にとっても善いものである、と信じています。
 
とはいえ、BOOK2までの印象は
「厳しい。救いが無いのではないか?」というものでした。
 
 
当初の予定を変更してBOOK3が書かれた、と言うことは
どういうことなのか?救いは?
BOOK3、楽しみです。