新大和川開削直後の宝永元年(1704)11月9日、付け替えに引き続き新田開発をも担当した堤奉行の万年長十郎に宛てて、大坂菊屋町の商人・河内屋五郎平が旧大和川の一つ吉田川筋全域に関して、反当りの地代金を示して開発請負を願い出ました。

 「吉田川」というのは、現在の東大阪市、近鉄河内花園駅の西側で北上してきた玉櫛川が分流した一つで、しばらく北東に流れ「花園ラグビー場」(当地は旧川跡)の辺りから北上、水走(みずはい)と今米(いまごめ)の間を通り、大東市に入って北からの寝屋川・南からの恩智川と共に西流、JR住道駅から鴻池新田駅近くに至って新開池(しんひらきいけ)に流入していました。


 新田開発後、吉田川筋には「川中新田」、新開池には「鴻池新田」や「中新田」が誕生します。
河内屋五郎平と子孫は川中新田会所に居を構え、以後明治に至るまでその家で、今米の代々の中九兵衛と共に新田経営を行います。



                         開発請負願いの控え






 上図は宝永5年の検地直後の川中新田絵図で、茶色の部分が新田領域です。

 図に見える、川中新田会所を住居とした河内屋とのちの川中家は、明治10年頃の廃絶まで続きました。