京阪本線「清水(きよみず)五条駅」から、清水焼発祥の地で焼き物のお店も建ち並ぶ「五条坂」を上りつめた所が、「浄土真本願寺・大谷本廟(おおたにほんびょう)」です。

 その北側(向かって左側)、本廟の石垣や塀に沿う細い道は「鳥辺山道(とりべさんどう)」とも呼ばれ、これから参る「西大谷墓地」に通じ、更に通り抜けると「清水寺」に出ることが出来ます。




       鳥辺山道  左=大槻石材工業所   右=本廟の石垣と塀


 今回は本廟にお参りしてから墓地に向かいます。


 安政3年(1856)架橋の、皓月池(こうげついけ)に架かる石橋「円通橋(えんつうきょう)」(通称・眼鏡橋)を渡ると石段上の「総門」が見えます。総門前の石燈籠には元文4年(1739)が刻まれています。



 


                    総門から仏殿を望む



 仏殿横の道、原始ハスの前を進み、ニ天門をくぐると眼前に白洲の広場がありますが、すぐ左手に「北門」があり、外は前述の「鳥辺山道」、目の前に「山口花店」があります。



 この「山内花店」は、明治の頃までは墓の管理も請負、毎月決まった日に花を添え、年一回、今米の家に集金に来ていたそうです。

 今日では半日で墓参が可能ですが、江戸期は天満を経由する2泊3日の旅であったようです。その歳の歌紀行が残っています。

 お墓はここから右手に上っていきますが、左手に中家墓石をつくった「大槻石材店」があります。

 今も納骨の際は、こちらに御手伝いしていただきます。


      


             


 山口花店で榊を求め、水をもらいます。

 ここからは、本廟の塀に沿う形で、その曲がりにも従います。


    清水寺へは、真っ直ぐ進みますが・・・


    塀に沿う形でこちらに進みます。少し先、この道が下りになる手前で左に曲がり直進します。


 

        次の目標は、右手に見えてくる丸い形をした墓石です。


 

       目印の墓石の手前を右に折れ、真っ直ぐに進みます。

  右手の墓石の傍らに石柱が建っているのが、目指す墓です。

  石柱の下部には、「第14区85号地」のプレートが貼ってあります。


            

          前面に周りました。右側が歩いて来た道で、奥に目印とした墓石が見えます。


 


 正面の「乗久」は甚兵衛の、「妙春」は60年近く連れ添ったその妻の法名です。


 現在の上石は、昭和60(1985)年再建のもの。実質は再々建と見られます。

 前回のものは、墓石左側面と背面に刻まれていた法名から、幕末1865年前後の再建と考えられます。

 甚兵衛乗久の命日だけ残し、24の法名は割愛しましたが、残る前面と右側面は前回のまま再現しています。
 「中甚兵衛墓所」と書かれた石柱は、昭和年代に入っても子孫が生存し無縁でないことを示すために、父・敬三が建てたもので、花立てにも「敬三建立」とあり、私が生まれたと同じ「昭和十七年」が刻まれています。


 中家墳墓をこの形にしたのは、偉大な父と母の法名を正面に出した中九兵衛重豊(乗圓)。

 母の亡くなった延享2年から寛保年間、1942~47年頃と見られます。
 父と同様、生存時から法名を名乗った乗圓は、奉公人に対しても、「乗久様ご厚恩に・・・、何事を差し置いても、毎年一度ずつは京都東山御塚へお礼に参ること」を諭しています。