●「河内扇」には、付け替え前の古大和川筋(A)の絵図に、付け替え新川(B)がはめ込まれています。

 先ずは(A)から見ていきましょう。


 ●(A)を描くのに参考としたと思われる絵図面があります。



 わが家に伝わる「(元禄時代)河内国絵図」とするものです。(横97cm、縦1m47cm)。

 

 ●ところで、河内平野の新田開発。ほとんどは大和川付け替えが成された後に行われたものですが、実は付け替え以前にも、深野池や新開池では、すでに開発を終え検地を受けたり、開発に着手したりする新田がありました。



 ●上の絵図(縮尺の正確な分間絵図)には、元禄12年(1699)に認可され、元禄15年(1702)に

検地を受けた、①「讃良郡・尼ヶ崎新田」と、②「若江郡・三嶋屋新田」、元禄16年(1703)に着手した、③「茨田郡・三嶋屋新田」、④「若江郡・箕輪新田」と、開発年次不詳の、⑤「西堤村新田」が示されています。


 ●さて、先の「河内国絵図」には、元禄15年(1702)の検地で成立した①②が書き込まれていて、その後の様子を描いたものと認められます。ただ、①が「大和屋新田」と書かれていて誤認なのか、開発中に大和屋も関わっていたのか、真相は分かりません。「河内扇」も同じ記載です。


 ●荻田氏は、他史料には「尼ヶ崎新田」とされているとあるだけで、深野・新開池周辺に描かれている井路や新田から、「河内扇は元禄15~宝永元年(1702~04)の大和川付け替え当時の絵図である」とし、付け替え後の新田が描かれていないので、「作成年次も同じ」との結論を出しています。


 ●確かに、「付け替え以前の河内の様子」は、その時期に違いないのですが、だからと言って、「河内扇の作成時期」と結びつけるのは危険です。

 「河内扇」の大きな特徴は、付け替え前後の様子を同じ画面に描きこんだところにあって、以前はこうした状態にある土地にこんな新川をつくる…といったことを示したものです。従って、先の図のような以前の様子を描いた絵図と、付け替えた新川図があれば、極端なことを言えば、たとえ時代が下がっても、いつでも作成は可能です。



 ●そのことよりも、『扇乃記』通り、付け替え工事開始の前にこの「河内扇」が描けるのかが、問題です。

 旧川筋については上記の通りクリヤーできます。そこで注目するのが、もう一つのポイントである「新川筋の流路」(B)です。集落の位置から、どの村と村の間を通っているかということです。


 ●実際の工事は、開始前の工事見積書「川違(かわたがえ)新川普請大積リ」や、開始後に版画として発行された「河内堺新川絵図」などが示す当初の計画川筋と、完成した川筋が違っていて、南からの流れとの水準合わせなどから、開始後も続けられた測量の結果、変更があったことが確かめられています。

 「河内扇」に描かれているのは、ズバリ完成後の川筋です

 従って、工事開始前の作成は無理で、「河内扇」の作成可能な時期は早くとも完成後と見られ、『扇乃記』の記載と史実が合わなくなります。

 『改流ノート』でもこの事を指摘したのですが、荻田氏はこのことには一言も触れられていません。



 ●では、河内扇の新川図と完成後の川筋、計画川筋の村落の位置を比較してみましょう。



    ↑ 正確な明治の地図で比べても、河内扇の新川筋と完全に一致します。



 ↑ 元禄17年(2014)2月27日御鍬初(工事開始)を記す、3月発行の木版画「河内堺新川絵図」の部分図。「川辺村」「瓜破村」の集落が川の南にあって、完成川筋の位置と異なります。


  
↑見積書に見る「瓜破村北ノ方」のルート      ↑A=計画川筋 B=実行川筋


●これで、「河内扇」の作成時期が『扇乃記』より遅い、付け替え完成後の可能性が強まりましたが、

更に、まだ後年になるのではないかという材料があります。それは、次回で。