●「東大阪歴史の道」。「贈従五位中甚兵衛翁碑」が建つ今米公園の北側に繁る屋敷林。

 その「川中家」の前に、10年前に設置された顕彰板を見てみましょう。


           


 ●「屋敷林」の内容には異存がなく本稿とは関係がないので、その個所は省略して書き写します。



 ●先ずは最初の四行の印象。

 前回のブログで再度強く指摘した、「川中家」とそれぞれの「屋敷」の区別が全くありません。

 「川中家」を一括した表現で、全てがこの場所のことのように表現されています。


 ●ここが甚兵衛生家なら、その父の家にもなります。その後が甚兵衛直系でないからでしょうか、初代としている甚兵衛の兄・善右衛門も、この家から大坂夷橋(戎橋)北詰の堺屋に養子に入ったのでしょう。

 そして、その子五郎平(堺屋五郎平?)もこの家に帰って(この点は曖昧な表現ですが)、「川中新田」を開発したということでしょうか。文面通りに受け入れればこうなると思います。

 しかも、その根拠を全て、当時の史料でなく、後年の「家系図」に求めているのもすっきりしません。


 ●更に、これだけの歴史を語りながら、この家が建ったのを「江戸初期」あるいはその以前の大凡の時代も挙げず、後半で「建築年は不明」とするのも、少し不思議です。


 ●また写真や文面で「河内扇」を採り上げたり、絵図の存在を挙げたりして、甚兵衛との関連を強調していますが、甚兵衛生家にまで及んでいることは理解し難く目を疑います。


 ●全ては最初の述べたように、①大坂菊屋町から移住してきて新田会所で事業を始めた「川中家」。

②その川中新田会所を引き継ぎ明治まで存在した「東川中家」。③今米に分家した「西川中家」のそれぞれの存在を認識していないか、あるいは無視した文面で、読む人に誤解を与えるものになっています。


 ●このブログの読者なら、これまでの史料が語る史実と大きな違いがあることが、お分かりいただけると思いますが、ここで新たに出て来た「家系図」や「河内扇」などを逐次、確認していきたいと思います。



 ●「川中家の家系図」は、大和川付け替え250年以来、書物にも採り上げられましたが、それらには誤記があるとして正された荻田昭次氏の論文「河内扇について」(河内ふるさと文化誌「わかくす」1993年春季号所収)に掲載されたものを参考にしたいと思います。


 ●当家系図は、宝暦10年(1760)に甚兵衛の子・九兵衛が亡くなった前後に川中新田から分家した、今米の「川中三郎平」の妻の父、摂津富田庄・江坂七左衛門が安永6年(1777)に作成したものです。


 ●注釈に「此度老人ニ問合わセ、乗久老絵図の裏書ニ引当テ、認之。後ノ人、誤リ在之ハ、可被改事」とあります。娘の嫁入り先の家系を明らかにするために、今米のお年寄りに話を聞き、甚兵衛乗久の絵図の裏書とも照合したものであり、後々、誤りが分かれば改めるべきものとしています。

 良心的ともとれなくもありませんが、必ずしも確信はないことの表れかもしれません。

 甚兵衛の絵図とは何をさすのでしょうか、拙家に伝わる「剃髪帯刀画像」には裏書は認められません。


 あくまで一般的なことと断っておきますが、作成の年次と裏付け史料の有無、著名人との連結等々、古い時代に遡る系図や由緒書などには、その信ぴょう性に多くの問題が秘められていることを、留意しなければなりません。


 ●前記掲載図をそのまま引用することは出来ませんので、少しづつ見ていきます。



 ●顕彰板と同じく荻田氏も川中家初代とされている「道円」については、次のように記されています。

     元禄十一戊寅正月十三日死去、母・妙円

     俗名・善右衛門、行年六十ニ才

     大坂夷橋北詰・さかい屋善右衛門也

     妻・妙正、享保十六年亥九月十八日死去 八十七才

 

 ●拙家では甚兵衛の兄として伝わるのは「太兵衛」ではない「太郎兵衛」(今米村年寄として文書もあり)一人だけで、この二つ年上の兄に関しては確認できませんが、ここに見る「俗名・善右衛門」は「兵衛」のつく家族とは同一とは考えにくく、あくまで養子先の俗名と思われます。


 没年が元禄11年(1698)で大和川付け替えより前のことですから、今米に戻っていたことは考えられず、「法名・道円」も当然、養子先である「さかい屋」でのものでしょう。

 荻田氏はこの法名とその子孫の法名が、父である「道専」と繋がっているとしてこれが本家と主張されていますが、養子先とその子孫を家系図に組み入れて、法名の繋がりを云々するのは論外です。



 ●次の「道意」の説明は次のようです。

     初而(はじめて)家を川中ニ創建。新田□之時、会所江□□

     寛延元年辰十月五日死去

     俗名・川中五郎平、行年八十二才、□□翁ト云

     妻・法名妙喜、正徳六年丙申六月九日死去

     俗名・たね、行年三十三才、中甚兵衛翁乗久娘

     後妻・法名妙円、宝暦二年申十二月十五日死去


 ●また、「系図奥書に堺屋の系図/道意の項」として次のように紹介されています。

     川中新田開発ニ付、母・妙正ト共ニ帰ル

     大坂堺ニテ出生


 ●上記によると、大坂夷橋北詰にある「さかい屋善右衛門」の子が堺で生まれ、長じて新田開発のために父の郷里に帰り、川中に家を創建し、川中五郎平と名乗ったとしています。

 しかし、一旦養子に出た人が亡くなったのち、その子供が父の郷里に家をもったとしても、親の実家に帰ったものでもなく、その家を継いだというものでもありません。

 実家の家系とは別のもので、あくまで大坂堺屋の本家または分家とみるのが筋と思います。

 その意味で、後々続く「川中家」の初代は、この「道意」とみるのが妥当と考えられます。


 ●後年に記しているこの表記だけでは、何か「川中」や「川中新田」という、苗字・地名・新田名が先にあったような印象を与えますが、史実はこれまで見て来た通りです。

 また、堺屋は夷橋北詰にあって、史料が語る「大坂菊屋町」と重なりますが、その「河内屋」とは一致しません。大坂に居る時から「大坂菊屋町・河内屋五郎平」を名乗り、新田会所に移っても「河内屋五郎平」としてその屋号を引き続き使っているのが現実です。

 系図の「堺屋」と実際の「河内屋」はどう結びつくのか。「善右衛門」の子が何故「五郎平」(五郎兵衛ならまだしも)なのか。疑問が多く残ります。



 ●次代「道教」を見ましょう。実際には俗名の「常眞」と書かれています。

      法名・道教、明和四年亥十月七日死去、行年五十五才、

      俗名 幼名・平蔵、川中三郎平□□


 ●「□□は墨字剥脱のため文字不明」とありますが、ここは「常眞」と思われます。


 

 ●以上、ざっと「家系図」を見、細かい所感を述べましたが、ひとつ、新田開発に戻って建てた家は「川中」にあるという記載は見逃すべきでないでしょう。どこにも「今米」とは書いてありません。


 「顕彰板」の文面は、その根拠は「家系図」の記載としながら、史実にも合う「新田会所」の存在をもみ消しています。

 実際に、「甚兵衛」はおろか、新田開発の「五郎平・三郎平(法名・道意)」や次代の「三郎平(法名・道教)」でさえ、この屋敷には住んでいなかったのです。