●本連載の(6)~(10)は、「(5)二つの説」の内、川中家の従前からの顕彰板や新聞記事の内容の真偽を確かめるため、庄屋制度が廃止になった明治の初めから歴史を遡る形で、宝永元年(1704)の大和川付け替え直後に新田開発者を募った時期まで、古文書が語る事実を見てきました。


 ●結果、明治生まれの人が庄屋を継いだなどというのは論外で、代々の庄屋屋敷と言いながら幕末の二代だけしか務めていないこと、また、中甚兵衛生誕後120年経った頃の創建である家に中甚兵衛が生まれることなどあり得ないことなど、様々な事実が明らかになりました。


 ●これらの史実を踏まえた上で、まだ見ていない付け替え300年記念として設置された、川中家前の「川中家と屋敷林」を確かめますが、再度、これまでの内容のポイントを少し整理しつつ、最初に追々明らかにするとした事項にも触れておきたいと思います。



 ●先ず、「川中家」と、一括して呼ぶ場合、

   ①新田開発のため大坂菊屋町から移住して新田会所で事業を始めた「川中家」

       (初代・河内屋五郎平~三郎平家、二代三郎平家)

   ②その川中新田会所を引き継いで明治初めまで存在した「東川中家」(三代以降の五郎平家)

   ③宝暦10年(1760)頃に今米村に分家した「西川中家」(三代以降の三郎平家)

があることをしっかり認識して区別しなければなりません。

 ①と②は「川中新田」にあった同一屋敷、③が現存する今米の屋敷です。



                   幕末の今米庄屋3家の系図


 ●上表の点線の囲みは同一人物であることを意味し、移住後もしばらくは五郎平を名乗っています。

 ●□で囲んだのが、甚兵衛以降明治初期までに、中家・川中家で今米村庄屋を務めた人です。

  幕末の40年弱、庄屋2人制となり、「九兵衛と五郎平」「九兵衛と三郎平」の形で務めています。

 ●中家の数字は、甚兵衛を初代とした場合の直系の代を表しています。

  その2代目と3代目に見える「中太兵衛」は甚兵衛兄・太郎兵衛の家系と思われます。



 ●拙家には「家系図」というものは伝わっていません。

 家に伝わる「過去帳」や古文書、京都東山の墓石、更に、菩提寺である吉原の西光寺(さいこうじ)、今米の清證寺(せいしょうじ)、天満の定専坊(じょうせんぼう)の永代経符や中家過去簿、そして明治に祖父が調べた「中家歴代誌」などが頼りです。

 これらから、「道専」以降57の法名が判明していますが、没年すら不詳のものも少なからずあります。 


 ●上表のように甚兵衛の父の俗名、兄の太郎兵衛の没年や法名など、確定できるものはありません。

 「中太兵衛家」の他にも、「乗圓」の子で分家した「中佐兵衛家」もありますが、共にしばらくして消息が途絶えます。


 ●川中家の初代「道意」と点線で結んでいるのは、甚兵衛の娘婿であり、甚兵衛自身、一時は同一家族として扱い次代を託そうとしたこともあり、甚兵衛の血が娘を通して次の「道教」に継がれているからです。

中家の人物に加えているという意味ではありません。



 ●次に、「甚兵衛」の子がその名を継がずに「九兵衛」である点。

 これには、大和川付け替えに関わる秘話があります。甚兵衛がその普請御用を仰せつかった際、子供九兵衛も同行させましたが、普請役所で行動を共にする江戸からの普請奉行二人の中に、同名の方がおられたのです。そこで、大坂で担当する堤奉行・万年長十郎の指示によると思われますが、江戸からの大久保甚兵衛に憚って、実は、工事前に「甚助」と改めていました。

 しかも、工事終了後、大久保甚兵衛は昇格して大坂町奉行に就任したため、甚助を甚兵衛に戻すことなく、翌年剃髪して子供に家督を譲るに当っても、甚兵衛の名はつがせなかったのです。

 ここで、改名した甚助を継がせず、九兵衛のままだったのは、既に念願を果たし法名を名乗る甚兵衛自身は良いとして、中家の成人男子は「兵衛」を付けるという基本を重んじたからとみられます。


          

    「覚 一、河州河内郡今米村住人、俗名中甚助、宝永二己酉年十月廿九日、

          年六十七才ニ而、摂州大坂津村御坊ニ而剃髪、法名乗久、

        享保十五戌年九月廿日、年九十二才にて往生」    (ニ而=にて)


 ●その「九兵衛」の名も、明治を迎えて平民の名に「輔」「兵衛」などが禁止されされたことから「九平」となり、それを最後に使っていませんでした。今は自由なその「九兵衛」を、私の代に復活させたのにも、それなりの理由がありました。


 ●本稿のはじめにも書きましたように、父から引き継いだ昭和58年(1983)以来の、私に課せられた使命は誤った「通説」の訂正。

 中でも、本稿にも関係深い問題ですが、「大和川付替250年記念碑」に中甚兵衛の父として「今米村・川中甚兵衛」なる人物が登場、語り継がれたことによるもので、私が「中九兵衛」を名乗ることで、「九兵衛」は江戸期に甚兵衛直系の中家の主が継承したものであることを伝えたかったからです。


 ●因みに、上記記念碑は甚兵衛の代ということより、実際には認められない父の代に付け替え運動史の解説の大半を占めていますが、その中に同志とされる「芝村の乙川三郎兵衛・曽根三郎左衛門」の名が出てきます。これも実名ではなく、甚兵衛の父(1656年没)の代の芝村庄屋として確認できるのは、「音川又右衛門」と「長曽根三郎衛門」(1643没)の二人です。

 明暦3年(1657)頃に始まった「中甚兵衛」(1639~1730)の時代での活動としては、「芝村・曽根三郎右衛門」(1639~1706)と「吉田村・山中治郎兵衛」(1634~96)らが、認められます。



やや、本題をはずれ、前置きが長くなりまいた。

 「川中家と屋敷林」は、次回で見ることにします。