●前々回、宝永5年(1708)8月に下附された『河内国河内郡川中新田検地帳』の奥書に、請負人の一人として「河内屋五郎平」の名を確認しました。


 ●「川中新田」の名は、その年の2月25日、検地が始まるに際して、落札後から開発中(鍬下年季)の

呼び名であった「吉田川筋新田」に、正式な村名として名付けられたものです。

 その後の経緯から見ても、「地名としての川中の始まり」と言えるでしょう。


 ●この名は恐らく、請負人の「内屋五郎平」と「九兵衛」から一字ずつとった「河中」に由来し、

それを「川中」と改めたようであり、上記のように、従前にはない新地名と言えます。

 ここで、「河中新田」としなかったのは、深野池(ふこのいけ・ふこうのいけ)を開発した新田の一部に、

別の河内屋が開発した「河内屋北新田」と「河内屋南新田」があることによると見られ、その略称と成り得る「河北」・「河南」と「河中」とで、その位置の誤認や同一の開発者と見られる紛らわしさを避けたのではないかと思われます。


 ●新田名が正式に決まったことから、前回見た、『検地帳』と同じ宝永5年8月書き改めの「川中新田会所屋敷替地之覚書」に、中九兵衛と並んで「河内屋五郎平」の名が出てきます。


            


 ●この署名は、今米村と川中新田の私的な覚書だけに、半年前に決まった新田名を、それまでの屋号の代わりに、苗字の如くに使用したものと考えられます。

 「川中新田の五郎平」を略して「川中の五郎平」、そして「川中五郎平」・・・・・。


 ●ある意味、これが「苗字としての川中の始まり」と言えなくもありませんが、前述の通り、時代が時代だけに、その年(1708)も、13年経った享保6年(1721)でも、共に公式文書では「河内屋」のままであったことから、正式には名乗れないもので、定着するまでには相当の時間経過を要しています。

 決して、「川中」という苗字が先にあって「新田名」として採用されたものではないと言えるでしょう。



 ●遡って宝永2年(1705)。新田開発に先立ち、開発権を落札した人が「地代金」を納入しました。

因みに、この地代金。幕府が前年に負担した大和川付け替え費用を捻出したものです。

 この年5月15日付の、万年長十郎手代による「吉田川筋新田」の地代金請取書の宛名は「大坂河内屋五郎平」殿となっています。

 ここで、川中新田の祖・河内屋五郎平は、元々大坂の人であることが分かりました。

 
      


 ●更に、付け替え工事終了直後、宝永元年(1704)11月9日の、万年長十郎に宛てた開発権入札文書(控)には、「大坂菊屋町・河内屋五郎平」とあり、出身地がより明確になりました。


   


 ●この「菊屋町」は、明治5年(1872)に心斎橋筋1~2丁目に組み込まれた町。

 心斎橋筋を挟んだ両側の町で、東西の横道としては、町北に八幡筋、町中に三津寺筋があり、

町南の宗右衛門町に沿って道頓堀川が流れ、中央の南北筋は戎橋に通じていました。


               

                  赤い部分が菊屋町推定地域


 ●このように、「河内屋五郎平」は、宝永2年(1705)以降、新田開発のために大坂菊屋町から移住、事業を始めた会所を含む新田地に「川中新田」という名が付いたために、「川中」を苗字へ転化しようと試みるも、容易に認めてもらえませんでした。

 川中家のスタートは、この会所であり、今米屋敷の誕生には半世紀以上の時を待たねばなりません。