●このところ、歴史を遡る形で話を進めていますが、前回は、庄屋制度廃止の明治4年(1871)以前、

庄屋としての川中五郎平の名が確認できる天保5年(1834)頃までの40年近く、「五郎平家(川中新田)」ないしは「三郎平家(今米村)」が中九兵衛家と共に、庄屋を務めていたことを確かめました。


 ●この両川中家は、それより以前に庄屋に就くことはありませんが、天保年間(1830~44)の前、

文政~文化~享和~寛政~天明~安永~明和と遡っても、約70年は両家屋敷の存在が認められます。

 しかし、その前の宝暦年間(1751~64)に入ると、大きな動きが出てきます。


 ●すなわち、東西川中家が揃って、特に問題の甚兵衛生家とされる今米の川中三郎平家の存在が見られるのは、よく遡っても宝暦10年(1760)頃までに留まるのです。

 それ以前の、川中家の住まいは川中新田だけとなります。

 このことは、宝暦年間に川中新田の川中家が分家し、今米に新たな屋敷を建てられたことを意味しています。今米に限った川中家の家督はそれ以後のことで、先に、甚兵衛生家ひいては甚兵衛の父の家であるなら400年以上と見ていたものより、かなり短い250年ほどの歴史ということになります。


 ●宝暦10年(1760)と言えば、中甚兵衛の嫡子・九兵衛の没年です。そして、甚兵衛自身はその30年前の享保15年(1730)に他界しています。生誕後約120年、宝暦以降に創建された今米川中家に甚兵衛が生れるわけがなく、ましてや父の家でもないでしょう。

 この時点で、「甚兵衛生家川中家説」は誤りなのではという結論が出たようですが、より正確さを期すために、更に遡ってみたいと思います。


 ●甚兵衛の子・九兵衛の世継ぎ(甚太郎)が幼少のため、亡くなる3年程前の宝暦7年(1157)に認めた書置きの聞き届け人の一人に、「川中新田・三郎平」の名があります。

      
        


 ●拙家史料では、「川中新田・三郎平」の名が見られる最終文書ですが、川中家文書目録では、宝暦12年(1762)にも、まだその名が見えます。まだ、存命中を意味するものでしょうが、分家以降の川中家はそれ以降、川中新田の方は五郎平を、今米の方が三郎平の名で相続しています。


 ●上記の聞届人は、川中新田の三郎平、すなわち川中家としては二代目の人で、明和4年(1767)に他界された川中三郎平常眞(法名・道教)です。


 ●平成7年(1995)に修復落慶する前の、吉原(よしはら)の西光寺(さいこうじ)の本堂鴨居の上には、甚兵衛父をはじめとし、その後は前回の修復、すなわち享保期(1716~36)からの物故者の永代経木札が掲げられていました。



 ●次の表は、ある時期までのものを、右から享年の古い順に並べ変えたものです。

            
          

  右端・釈道専が甚兵衛父、三番目・釈乗久が甚兵衛、六番目までの施主は当時再建に尽力した

  甚兵衛の子・中九兵衛重豊(釈乗圓)で本人は左から二番目に見える。


 ●表の左端、聞届人「道教」の施主が、川中三郎平・同苗五郎平となっていることから、その没年時には

既に分家されていることを物語っています。

 恐らく、名前の順番から見て、道教の長男・三郎平が今米に新しい家をつくり、次男・五郎平が新田会所を継がれたのでしょう。

 兄・弟の関係や継いだ名前はともかく、一般的解釈では、川中新田が本家、今米が分家となります。


 ●因みに、この西光寺の遺物でも、後の時代の木札を含めて、その前後の人の施主に連名はなく、

釈道教以降、三郎平と五郎平の名は別々に見られます。


 ●西光寺に川中家の人物として初めてその名が見える「釈道意」は、寛永元年(1748)に亡くなられています。初代三郎平(当初の名は五郎平)であると共に川中家の初代です。その施主は上記の「川中新田・三郎平」すなわち「釈道教」です。


次回は、その川中家の初代の存命時に遡ります。