●中甚兵衛の生まれ育ちは、前回も述べましたように、今の大阪府東大阪市今米(いまごめ)。
●東大阪市はその名の通り、大阪市の東に位置し、生駒嶺を境に奈良県と接しています。
昭和42年(1967)、布施(ふせ)・河内(かわち)・枚岡(ひらおか)の3市が合併して誕生しました。
それまで「今米」が所属していたのは、河内市でした。
●江戸時代から明治中期までは、「河内国河内郡今米村」。
明治22年(1889)以降は、中河内郡東六郷村~同・盾津(たてつ)村~同・盾津町~河内市の
それぞれ大字今米として名を残し、現在の東大阪市今米に至っています。
司馬遼太郎『街道をゆく』の「若江村付近」にも、中甚兵衛が登場しますが、
「当時盾津という村に住んでいた庄屋・・・」とあって、誤認があるようです。
●大阪城の真東に位置する「今米」。
大阪市内からは「市営地下鉄中央線」の「長田(ながた)駅」で接続している
「近鉄けいはんな線」(旧近鉄東大阪線)という路線の、「吉田(よした)駅」が最寄駅です。
この付近の近鉄は高架線で、地上は「国道308号線」(築港枚岡線・中央大通)、
更に「阪神高速東大阪線」も通る多重構造になっています。
●地下鉄と近鉄は相互乗り入れをしていて、通常は長田駅で乗換の必要はありません。
●「今米」は、近鉄吉田駅の北方に位置し、古くからの村名を継承する「中新開(なかしんかい)」
「吉原(よしはら)」「水走(みずはい)」などの町に隣接しています。
●地域の東部あるいはそれに隣接するのは、古大和川のひとつであった「吉田川」の跡地で、
その全長を大和川付け替え後に開発した「川中新田」の名を継承した「川中」。
平成の初めまでは、元々の区域からかなり減少したものの、この近辺では大半が細長く残っていましたが、現在はその領域が縮小・変化して小さな区域しか残っていません。
ここで不思議なのは、、のちのち本稿でも問題にしますが、
その地の開発のシンボル的存在であった、「新田会所跡地」がはずされていることです。
極端な言い方をすれば、「便利さ重視・歴史の軽視」です。
●現在の区画は、昭和47年(1972)から進められた「東大阪市中部土地区画事業」の終了年、
平成7年(1995)からのもの。
それ以前の区画を、少し範囲を広げて見てみましょう。
●八尾の二俣で久宝寺川(長瀬川)から分流した古大和川のひとつ「玉櫛川」(玉串川)は、
「近鉄奈良線・花園駅」の西側辺りで更に分流、西側への流れは「菱江川(ひしえがわ)」、
東側への流れが、付近の村名からとって「吉田川」と呼ばれていました。
●その吉田川が「花園ラグビー場」の方へ流れ、その辺りから北上していたことは、
上の地図の道路や区画などからも容易に推定できます。(水色部)
●が北部は、大東市に入ったところでプッツリ途切れ、地図では西折していた川筋らしき形跡は
全く認められません。
これは昭和24年(1949)に中河内郡盾津町川中の一部が北河内郡住道(すみのどう)町に
編入されたのを皮切りに、数度にわたって編入があり、その後の発展で周辺の町に溶け込んだ
ためです。一部、川中新町の名は残っています。
●因みに、西折した吉田川は、北からの「寝屋川」と、南から生駒山地の谷川の水を集めて来た
「恩智川(おんぢがわ)」と並流、灰塚の辺りで新開池に流れ込んでいました。
河内平野の最低地、「JR学研都市線」(片町線)が走る北側辺りで、
「鴻池新田駅」が流入地点の最寄駅です。
●やや、話が広がりましたが、ここでは、区画整理前には「川中」ひいては吉田川筋内にあった
「川中新田会所跡」や「今米墓地」が、今米に組み入れられている点に注目しておきたいと思います。
●さて、近鉄吉田駅のプラットホームの駅名表示は、次のようです。
●次回は、駅名の括弧表記や案内板にある、この「中甚兵衛の碑」の地を訪ねます。