●表題の人物「中甚兵衛」は、江戸時代、現在の東大阪市今米(いまごめ)に当る
河内国河内郡今米村の庄屋を務めた農民です。
生没年次は、寛永16年(1639)~享保15(1730)。
92歳という、当時としては極めて稀な長寿を全う、
3代将軍・家光~8代・吉宗の統治下を生き抜きました。
この内、4代・家綱~5代・綱吉の時代に、
半世紀近い運動を展開した末に、実際の工事にも参画、
大和川の付け替えを成し遂げた代表人物として知られています。
剃髪帯刀画像(87歳) 甚兵衛筆跡
●筆者はその末裔で、甚兵衛から数えて10代(目)。
甚兵衛の嫡子以降は代々、九兵衛(くへえ)を襲名して幕末に至りましたが、
私の代になってその名を復活させています。
何故、二代目以降は甚兵衛の名を継がなかったのか、
今、どうして復活したのかの経緯(いきさつ)については、追々明らかにしたいと思います。
●昭和58年(1983)の9代目・父の死で、先祖の遺物を引き継ぎました。
その当初、世に流布する記述物はもとより、小学校副読本に至るまで、
わが家に伝わるものとの間に大きな違いがありました。
その原因を辿るため調査を続けると、
多くの出版物では、かなりの部分で一字一句違わない子引き・孫引きが続けられていて、
原点を辿ると、全て昭和29年(1954)の大和川付け替え250年の際に残された記述物にあること、
そしてそれは、節目の年を間近に控えて、時間に制限された不十分な調査に基づくものであったこと、
を突きとめました。
更に、裏付けに乏しいフィクションが史実の如く織り込まれていることも多く、
ますます史実から離れた記述が幅をきかせていました。
付け替え250年記念物。左から「記念碑・付替工事史・治水の誇里」
●以来これまで、微力ながら、自費出版、地域誌などへの投稿や、各種の講演会を通じて、
付け替え250年以降に生まれた通説について、
天井川となった時期・付け替え250運動と工事の経緯・新田開発の実態や、中甚兵衛の生い立ちなど、
幅広く疑問を投げかけ、裏付け文書(もんじょ)を示して、
通説の見直しの必要を提唱し続けてきました。
●拙文ながら、これまでの約30年間の著作物としては、
をはじめとして多くを数えますが、
別途、所蔵文書の展示会出品、講演、小学校授業などを重ねてきました。
②改流ノート ⑥甚兵衛と大和川 ⑦ジュニア版 ④歴史読本目次
●こうした中、平成16年(2004)には、大和川付け替え300年という大きな節目を迎え、
今年には更にも10年が加算されりました。
ここに至るまで、様々なご教示・叱責・激励などを頂きながら、多くの方々に支えられてきましたが、
一方で、付け替え250年の調査を原点とする昭和30~60年(1955~85)当時のままの
記述が、未だに続いていることも事実です。
小説として読んで面白いものもあるからかもしれませんが、
歴史小説とて、基本の流れはきっちりと押さえてもらわなければなりません。
まして、史実に基づかない歴史を語ることは、意味がないだけでなく害があると考えます。
●今回採り上げるのは、既に引退した講演会においても、自らの調査結果を発表する
当初においては触れることが多かったものの、
次第に大和川付け替え全般の話題に移り、触れる機会の少なくなっていった、
中甚兵衛の生い立ち、とりわけ「中甚兵衛生家」についての問題です。
未だ、直系の子孫である拙家の見解と異なる説が強いのも現実です。
一般には、どちらでも良いことかも知れず、ややもすれば本家争いととられ勝ちですが、
当事者にとっては極めて重大な事柄です。
史実が知られていない、あるいは信じていただけない方々も多くおられるようですので、
関連事項を織り交ぜながら、明確にしていきたいと思います。
通常のブログを織り交ぜての不定期掲載となりますが、よろしければお付き合い下さい。