中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 「JR阪和線 鶴ケ丘駅」が、昭和1319385月22日に「鶴ケ丘停留所」として開業した当時の所在地は、「大阪市住吉区山坂町」。

 「阪和電気鉄道」が開通すると同時に開業した、北の「南田辺停留所」(現・南田辺駅」と同じ町になっていました。この「山坂町」の名は昭和55(1980)年に「山坂」となるまで続きます。


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             < 昭和42(1967)年当時の鶴ケ丘駅・南田辺駅付近


 新駅の設置は、シリーズの3回目でも触れた、大正期後半から急激に進んだ「宅地造成」と「住宅建設」による「人口増加」が大きな要因と考えられ、更なる発展が見込まれたものと思われます。

 「山阪神社」より南部の「山坂町」のもととなったのは、大正91920、「旧・松原新田」、その時の「田辺町大字松原」に「大阪住宅経営会社」が行った大規模な住宅経営でした。

 昭和にかけての田辺地区における一般住宅建設の先がけとなった「松原住宅」です。


 新駅が出来た昭和13(1938)年当時には、更に波及し、東の田辺地区の人口も増えました。

 昭和111936には、住吉区田辺西之町8丁目(現・東住吉区南田辺4丁目)に、「大阪市立南田辺尋常小学校」(現・南田辺小学校)が開校しています。

 現在の、「田辺小学校」と阿倍野区の「長池小学校」から分校したものです。

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                                < 南田辺小学校


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 また、大正8(1919)年に、大日本婦人洋装普及会を組織し、この地に事務所をおいた「山本ヒデ」は、昭和51930には住吉区山坂町4丁目に「山本女学院」として組織を拡大していました。

 以後、数多の改称を経て、平成22(2010)年に「関西デザイン造形専門学校」を閉校するまで、「山本服装」の愛称で親しまれました。


 更に、昭和81933には、「住吉区山坂5丁目」に、「愛徳姉妹会」会員により「聖母ハウス」を設立、事業を開始しています。第二次大戦後の、「聖家族の家」「聖母託児園」として発展、現在に至っています。


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                  < 右手「聖母託児園」、左手「聖家族の家」と「愛徳姉妹会」


 このような時代の背景があっての新駅開業でしたが、一番の要因、「松原住宅」について、もう少し見てみましょう。

 次の地図は、現在の鶴ケ丘駅東の町並みを示していますが、阪和線沿い東側しばらくとその東の道路の向きが明らかに違っています。阪和線や長池の沿っているのが、この地域に最初に開発された「松原住宅」とそれに沿ったもの、東側がその以降に開けた地域です。


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     < 鶴ケ丘駅近辺 >             < 鶴ケ丘駅の北、横に走る大通りが「南港通」








 大正91920以降、「長池」の東側、「旧・松原新田」の集落までの、曲がりくねった道しかなかった一望の農耕地帯が、碁盤目型住宅地に変貌しました。


 区域の北端は、現在の「南港通」を越えた山坂3丁目の南部まで及んでいて、今は、その南北の道路は信号がなく渡れない所が多いですが、繋がっていたことが確かめられます。


 「松原住宅」の開発に当って、「長池」の方向に沿って、東から「青桐(あおぎり)通り」・「銀杏(いちょう)通り」・「栴檀(せんだん)通り」と名付けられた直線道路が走りました。そして、それぞれの通りを玄関口として、住宅が両側に建てられました。

 「長池」の縁に沿っていたと見られる一番西の「(やなぎ)通り」は、今も曲がりくねった形を残しています。


 「銀杏通り」の町並みを区切る交差路の部分には、円形の広場が造られました。

 地元で「ロータリー」と呼ぶこの空間は、「阪和電気鉄道」が開通する以前、チンチン電車と呼ばれた「南海電気軌道 平野線」の「田辺駅」とを結ぶバスの発着場でした。

 後年には、「盆踊り」が行われた時期もあったということです。


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         < 山坂4丁目に残る円形交差点



 この「松原住宅」に関連するものとして、「松原葬儀場・墓地」があります。

 昭和初期の人口増加と、大正末期からの都市計画の遂行上、火葬場・墓地の整理・統合が進められていて、その第1期として、散在していた、松原・南田辺・湯谷嶋・鷹合を統合したものです。

 因みに、大規模な「瓜破霊園」が竣工したのは、のちの昭和15(1940)年5月のことでした。

                                                       ( つづく )