中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 「JR阪和線 鶴ケ丘駅」とその周辺を探るシリーズの4回目。漸く「鶴ケ丘」の話題に入ります。

 「鶴ケ丘停留所」が、「南田辺停留所」(現・南田辺駅)と「臨南寺前駅」(現・長居駅)の中間駅として設置されたのは、「阪和電気鉄道」(現・JR阪和線)が開業して10年近く経った、昭和1319385月22日。


 大阪では、「鶴橋」や「鶴見」がそうであったとも言われるように、多くの「ツル」が集まる低湿地が近くにあり、それを見下ろせる地を思い起こさせる駅名ですが、その考察はひとまずおいて、付近の地名から見ていきたいと思います。

 開業当時の停留所と東側の地名は、昭和4(1929)年からの「大阪市住吉区山坂町」、西側が大正14(1925)年からの「大阪市住吉区西田辺町」でした。


 のち、昭和18(1943)年に、町名はそのまま、「東住吉区」と「阿倍野区」に分かれます。

 次の地図は昭和42(1967)年のものですが、上記の分区と阪和線が完全に境界になっていることを除いて、山坂町や西田辺町の付近の町名は、「鶴ケ丘停留所」の開業当時と大差はありません。


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                 < 昭和42(1967)年当時の「鶴ケ丘駅」周辺








 興味深いのは、「西田辺町」は今と比べてもほぼ同じですが、現在の山坂や北田辺・田辺・東田辺・南田辺などの田辺地区が、山坂町はもとより、「田辺西之町・田辺本町・田辺東之町」が南北に細長い町区画であることや、昭和37(1962)年に住居表示制度が「番地」から「街区」に変更される以前のまま、必ずしも道路での区画がされていない点です。

 そもそも、「道」を正面にして両側に家が建てられていくわけですから、それを切り離すのは町の成り立ちを崩すものとも言えます。利便性の追求は「向う三軒両隣」を追いやりました。


 話がややそれてしいましたので、「鶴ケ丘停留所」両側の地名に戻します。

 この辺りに人が初めて住みだした、江戸期の二つの新田の推移を簡単にまとめてみます。


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            < 明治期 >                          < 大正期


 二つの新田とは、昨日のブログの地図にもあった「猿山新田」と「松原新田」です。

 南田辺村の人が、「山阪神社」より南の「長池」の両側の原野を、同時期に開拓したものです。


 「長池」の全貌は、「我孫子丘陵」の峰の一つの分岐点である南の臨南寺辺りから、北の「股ヶ池」まで続く、丘陵の狭間の連続したものと思われますが、江戸期までには街道の整備などで、三つに分割されました。北から「股ヶ池~長池~長池」とするものや、「股ヶ池~長池~南長池」が多いですが、上の大正期の地図では、「股ヶ池~股ヶ池~池田池」と表示されています。また、二つの股ヶ池は、「北股ヶ池・南股ヶ池」と称したとされます。


 この内、両新田は、一番南の「長池・南長池・池田池」とされる部分の両側に当ります。

 大正期の『東成郡誌』には、この「池田池(いけだのいけ)」は「南田辺」との共有のもので、「猿山」には更に二つの溜池があったとあります。明治期の地図に見えるものと思われます。








 この「猿山」と「松原」。今ではすっかり目や耳にしなくなりましたが、街角に残るその名や、所縁のものを探してみました。


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                  < 猿山地蔵尊


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            < 猿山新田を開発した奥田邸と、神社を思わす邸内の大クス

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           < 大阪市設松原霊園 >                  < 土地建物を扱う会社


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 「松原新田」の集落の北東端かと思われる個所に集められている三本の石柱。

 「荘」の意味が理解しかねています。果たして、「松原新田」との関連は???

    ( つづく )